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移転しました

  1. 2013/09/26(木) 20:33:17|
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真実一路

  1. 2013/09/25(水) 20:57:55|
  2. ★★★|
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昔読んだ漫画のキャラクターに「真実一郎」という人がいました。
元ネタは本書だそうですが、寡聞にしてこのことを知ったのは成人してからです。
10年ほど前に武者小路実篤の「真理先生」を読んで以来、いい人ばかりが出てくる類の小説とは相性が悪いと感じていたので、少し腰が引けながら読み始めました。

誠実ながらも頑固な父親、その父親と一度は結婚したものの愛のない夫婦生活を不誠実と考えて逃げ出した母親、優しい姉、そして自分の母の記憶のない弟。
彼らはみな、自らに誠実に生きようとしながらも結果的には不幸な結末を迎えてしまいます。
とくに、父親が愛人のもとへ逃げ出した母親のことを、息子に隠し続けたために、息子が大人への不信感を抱いて万引きなどの非行に走る場面などは、すれ違いの最たるものです。

ただ、正直に申しまして私にとっては登場人物がことごとく自業自得に見えて全くといっていいほど共感できませんでした。
本書の裏表紙の紹介文によると
人生を”真実一路”に生きようとしながら傷ついた人々の、不幸だが真摯な姿を描いた不朽の名作である。
とありますが、特に父親は余計な浅知恵の策を使い損ねたために、すべてが空回りしています。
岡目八目だからそういえるのでしょうが…。

はるか昔のホームドラマ的なあらすじなので、不幸な物語ながらも安心感をもって読みすすめることはできるでしょう。
ただし、それ以上のものでは決してないと思います。

エミリーに薔薇を

  1. 2013/09/23(月) 01:39:08|
  2. ★★★★★|
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ここのところ、意識してフォークナーを読んでいます。
少し前までゾラのルーゴン・マッカール叢書を読んでいたのですが、ハイライトともいえる「壊滅」や最終巻の「パスカル博士」においてそれまでの登場人物たちの人生が収束するあの感覚は、感動するものでした。
フォークナーも、さまざまな作品で同じ舞台、同じ人物が繰り返し現れることで有名です。
ひとつひとつを読んだだけでは見えてこないものが、複数の作品に触れることで浮かび上がるのではないかと期待しているのです。

本書に収録されているもので最も有名なのは、表題作の「エミリーに薔薇を」でしょう。
没落しつつある名家の最後の一人であるエミリーの生涯をかけた恋物語…といえば、それなりに内容を要約できているはずです。
途中で全く緊張が和らぐことなく、最後まで漂う不吉な空気はまさにフォークナーの名人芸です。
本作は他のフォークナー作品との関連性が薄く、これ単独で読んでもその面白さを十分に味わえるという意味でも、とっつきやすいでしょう。

しかし、個人的には「ウォッシュ」や「女王ありき」のほうがより面白いと思いました。
なぜならば、「ウォッシュ」は「アブサロム、アブサロム!」、「女王ありき」は「サートリス」や「サンクチュアリ」とそれぞれ関連付けられているために、この作品で述べられている以上の立体的な物語となっているからです。
端的に言えば、本書に収められている作品の多くは、他の長編の外伝的なものです。
よって、当該の長編を読んでいると登場人物像があらかじめ頭に入っているのでよりよく楽しめるのですが、そうでない場合には残念ながらあまりぴんとこないことでしょう。
私にとってはフォークナーの後期作品は全くの未見なので、これらに関連した「過去」「デルタの秋」は読んでいてもよくわからない部分が多かったです。

本書の解説には
長編はどれも難解の聞こえが高いだけに、一般の読者は近づきがたい気がして、つい逡巡するのではあるまいか。
そうした長編にくらべると、短編ははるかに読みやすいので、二十世紀最高のこの作家の世界にじかにふれたいと思うものは、まず短篇から接近するのが賢明と考えられる。
とありますが、これは大きな間違いだと思います。
短篇のほうが確かにプロットも簡単で読みやすいかもしれませんが、長編の外伝的作品である以上、長編を先に読んでおかないと登場人物の人柄や来歴が全くわからず、結局理解できないのです。
おそらく、本書も長編を読みつくした人が、拾遺的に読むものだと思います。

「エミリーに薔薇を」だけを目当てに読むにしても、十分価値のある一冊だと思います。
本書自体は絶版なのですが、「フォークナー短編集」にも「エミリーに薔薇を」は収められているので、こちらを読めばよいでしょう。

近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で

  1. 2013/09/22(日) 17:27:13|
  2. ★★★★★|
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少し前に読んだ「奴隷商人ソニエ」で参考文献として挙げられていたものです。
絶版だったので、ネットで検索して取り寄せました。
以前も何度か同じ事を書きましたが、便利な時代になったものです。
ほんの10年ほど前には、欲しい本が絶版だったときには、地域の図書館に問い合わせを入れるか、古本屋を訪ね歩いて何とか発見するしかなかったのですから…。

本書では、大航海時代以降の奴隷貿易と奴隷制について述べられています。
奴隷貿易といえば、大西洋を渡って奴隷が輸出された「大西洋奴隷貿易」を連想しがちですが、実際はそれだけに尽きるものではありません。
最初期はアフリカ人奴隷はヨーロッパに送られて家内奴隷として使役されましたし、近代においてはアジア人が「苦力」などの名称で奴隷となりました。
本書のコラムには、豊臣秀吉による宣教師追放の動機のひとつとして、ポルトガル人が日本人を奴隷として連行した、というものが挙げられています。
古代ギリシアの時代よりさらに昔からも奴隷の存在は確認されており、その意味においてはアフリカ大陸への進出により奴隷貿易が発生したわけではありません。
しかしながら、通算で数千万人に及ぶ大量の奴隷が取引されるようになったのは、やはり新世界への奴隷の輸出がきっかけでです。
「奴隷商人ソニエ」でも述べられるように、とくに初期には奴隷だけでなく船員も輸送中に相当な割合が死亡しました。
想像もできないほどの、絶望的な状況だったのでしょう。

奴隷交易の経済効果については、よくその直接的な利潤が従来言われたほど大きくなかったことだけを取り上げて、ヨーロッパ人による収奪であったという主張への反論とする人がいます。
しかしながら、奴隷交易においては、関連産業への波及効果のほうが圧倒的に大きく、これがヨーロッパ-アフリカ・新世界間に中央-周縁の関係を作り上げる原動力となりました。
産業革命のなかでも、イギリスにおける綿織物生産の自動化、大量化のインパクトはとても大きいものでしたが、これは北米南部の悲惨な奴隷プランテーションにおける綿花大量生産から生まれたものです。

「奴隷商人ソニエ」に比べると、データに基づいて淡々と事実(と思われること)が述べられているのですが、逆にその分状況のひどさが際立つように思いました。
実際に奴隷制が身近な状態で育ったフォークナーの「アブサロム、アブサロム!」などを読んでいてもその閉塞感、絶望感が伝わってきますが、本書や「奴隷商人ソニエ」を読むとこれが真実であったことがより確信されます。
本書の序文には
わたしたちは、一般読者、学生向けにできるだけ平易な文体で、しかも内容の質を落とさずにまとめようと心掛けた。
とありますが、相当この試みは成功しているように感じました。

舞姫タイス

  1. 2013/09/22(日) 16:47:58|
  2. ★★★★★|
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10年ほど前以来の再読です。
裏表紙みると「哲学小説」なる紹介文が描いてありますが、そんな高尚な話ではなかったような記憶が…。

基本的には、非モテをこじらせた修道士が、宗教的情熱と肉体的恋心を勘違いした末に悪魔に心をさらわれる、という筋書きです。
電波男」で書かれていた状況とは細部で違いもありますが、自分の本来の希望とは違い、意中の人に男性として見られなかったためにたまった恨みのエネルギーを昇華することで、主人公の修道士は人並みはずれた厳しい修行を実践します。
(このエネルギーは、「電波男」で言うところの「喪闘気」です。)
修道士はこの修行により世間でも名が知られるのですが、実際はこれはむしろ意中の女性への恋心を増す効果しかえられず、最後には神にも見放されてしまうのです。

「電波男」では、「非モテどもは二次元へ転進せよ」と主張されていましたが、本書では果たしてどういった救いがありえたのでしょうか?
修道士は、かつて恋心を抱いた遊女タイスに対して、彼女を救って神に消えさせられるのは自分だけだと一方的に思い込み、そして宣言どおりに彼女を修道院へと送り届けます。
タイスはその後聖女ともいわれるほど徳の高い人物となるのですが、修道士はタイスの肉体を忘れることができず、ついには悪魔に心をさらわれてしまいました。
あまりにも一方的なタイスへの思い込みと、自分の独善的な行動を振り返ることのない視野の狭さ、傲慢さには非難されるべきところもあるのでしょう。
しかし、悪意があったわけではなく、単に人間的に未熟であったにすぎない修道士から神が離れていくのを見ると、本当に救いのない話だとも思います。

私はあんまり政治には興味がないのですが、人生で一番驚いた事件のひとつに、「民主党偽メール事件」というのがあります。
民主党の若手ホープだった永田議員が、ライブドアの堀江社長から自民党の武部幹事長への賄賂の証拠として、メールを印刷した文面を提出した事件です。
当初から文面が怪しく、客観的に見ればガセネタであることが明白でした。しかし、執行部もこの問題による自民党追求に固執した結果、メール自体が嘘であることが判明して党が大ダメージを受けたものです。
(後に、永田元議員は入院していた病院で自殺しました)。
当時は、「民主党は馬鹿しかいないのか!」という論調が支配的ですが、私はそうは思いません。
むしろ、どれほど本来は優秀なはずの人でも一度狭い常識、見かたに囚われてしまうと抜け出すことが非常に困難だということを意味しているように感じます。

よくある誤解に、数学は主観の全く入る余地のない、白黒のはっきりした学問だというものがあります。
実際は、無批判に受け入れるべきいちばん最初の仮定である「公理」というのがあって、ここからあらゆる証明はスタートするのです。
「公理」の選び方によっては、そこからの理屈が一緒でも全く違う結論に達することができます。

パフニュスにとっては、三位一体のキリスト教の神の存在が「公理」にあたります。
永田議員にとっては「メールは本物である」ということが「公理」でした。
「公理」が単なる仮定であることを認識しているうちはまだ健全なのでしょう。
しかし、「公理」=「絶対的真理」だと勘違いし始めると、「公理は正しい」→「よって私(たち)は正しい」→「これだけ確信をもって正しいといえるのだから、公理はますます正しい」→「よって、私(たち)もますます正しい」という危険な無限ループに陥るのかもしれません。
この罠から逃れることは、多くの人にとって非常に困難なように思います。

途中、金持ちの現世主義者達が繰り広げる議論部分は退屈で、読むのが苦痛な部分もあります。
ただ、ここは詳細に議論を負うのではなく、単に議論の「退屈さ」を感じるだけでもいいように思います。
戦後すぐの翻訳なので読みづらいところもありますが、比較的すらすら読める内容だと思います。

緑の世界史

  1. 2013/09/08(日) 22:36:51|
  2. ★★★★★|
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下鴨神社の古本市でたまたま見つけて購入しました。
この系統の本はだいぶん前に「環境と文明」を読んだことがあったのですが、本書で述べられている内容もほぼ同様でした。

かつて人類が狩猟採集によって食料を得ていた頃には、食料の保存などの技術も未熟であったために、短期的に消費する量のみが自然から採取されました。
その環境が維持できる人口は、狩猟採集の技術的限界により決定されたために、自然に大きなダメージを与えることはありませんでした。
(自然にダメージを与えるほど大量の食物を得ることは不可能でしたし、保存できない以上無意味でもありました。)
しかし、その後農業技術が発達するにつれて人口が増え、人類が自然環境に対して深刻な影響を与えるようになったのです。
農業の登場により食物の採集コストは低減し、食物の生産量のほうが人口を律速するようになります。
しかし、農業自体が年毎の気候変動に極めて敏感に反応して収穫量が常に変動しますし、環境破壊により通常は年を経るごとに得られる食物の量は減少します。
最も多くの食べ物が得られた時期に人口が膨張した後には、それを凶作の年にも支えるために一人当たりの摂取エネルギー量を減らさざるを得ません。
著者は、狩猟採集時代に比べて農業化された後に、一人当たりに割り当てられる食べ物の量はむしろ減少したと主張します。

イースター島では、島の木がモアイ像運搬や建造物のために枯渇しつつある中でも、権力者達は自らの権威を高めるために依然として木材を浪費し続けました。
その結果、島から脱出するための船を作る木材もなくなり、島民はかつての高度な文化を維持できなくなったのです。
著者は、環境破壊の多くはこのイースター島のように、長期的な利益を求めずに短期的にできるかぎりの量を収奪しようとしたために起きたと述べています。
これは、世界の多くの地域で人間のために絶滅させられた動物についても言えることです。
アメリカでは何十億もの数の鳥類を見境なく殺して食物にし続けた結果、わずか数十年で絶滅した例もあります。
ハンター同士の競争により、お互いに捕獲量を抑制できなかったのです。

相当に長い本ですが、文章もわかりやすく良書だと思います。
人類と環境破壊についてかなり網羅的に述べられています。
これひとつ読めば、だいたいは理解できるでしょう。

森の生活

  1. 2013/09/01(日) 20:17:00|
  2. ★★|
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  4. コメント:2
アーミッシュについての本を探す中で、そういえばまだ自然派のはしりともいえるソローの本を読んだことがないということに気づいて購入してみたものです。

少し前に「豚の死なない日」を読んだときにも感じたのですが、私はあまりこういった自然派とは性質が合わないようです。
読んでいても、なかなか同意しがたいことが多く…。
ソローの主張を羅列すると、というもののようです。
文明化される以前の素朴な生活に戻ることで、人間性を取り戻そうということのようですが…。

しかも、アメリカ人の文章にしばしばみられる「くどさ」が、ソローの文章にも見られるのです。
同じ事を何度も何度も表現を変えて主張するのですが、読むがわにとってはいつまでたっても話が進まずとても苦痛なのです。
(「沈黙の春」にも似た状態です。)
どうも、プロテスタント的な労働を尊ぶ文化に疑問を持っているようで、ヒンズー教、仏教、アメリカンインディアンの信仰、儒教、ギリシア神話などから色々引用しているのですが、今となっては後のヒッピー文化を連想しますね…。
歴史的には重要な文献なのでしょうが、今読んでもちょっとついていけないものを感じてしまいました。

生物時計をさぐる―私とゴキブリと

  1. 2013/08/25(日) 06:48:18|
  2. ★★★★|
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古本市で偶然出会って購入したものです。
背表紙には副題の記載がないので、「私とゴキブリと」の部分は手に取るまでわかりませんでした。
生物から見た世界」を読んで、体内時計について多少の興味があったので購入してみたものです。

俗に、人間には体内時計が備わっていて、常に明るくて温度変化もない環境におかれたとしてもほぼ24時間周期で活動する、と言われたりします。
この、自然に備わった体内リズムのことを専門用語で「サーカディアン・リズム (circadian rhythm)」と呼びます。
「circadian」というのはラテン語のcirca(約)とdies(一日)の合成語で、「約一日」という意味となるそうです。
人間を含めて多くの生物は、24時間サイクルで光の当たる外の環境に置かれた場合には、ぴったり24時間の周期で活動と不活動をくりかえします。
しかし、光量の変化が全くない環境では、24時間からわずかにずれた体内リズム(サーカディアンリズム)に従うことになります。
あるノネズミでは23時間33分、あるゴキブリでは23時間45分、また別のゴキブリでは24時間10分というように、その値は24時間に近いながらも生物種によりばらつきます。
カサノリやゾウリムシなどの単細胞生物、オジギソウなどの植物でもサーカディアンリズムの存在が証明されており、かなり広範な生物がもっている共通の能力のようです。

著者は本書を書く10年以上前に、ゴキブリを用いてこのサーカディアンリズムがどういった機構で発生するのかについて研究を、アメリカ、ドイツ、イギリスで行いました。
そのいきさつを、当時を思い出しつつ述べたのが本書です。
ゴキブリは昆虫の中でも生命力が高く、しかも体積が大きいために実験のための手術が容易だと言う利点があり、この種の実験によく用いられるそうです。
(頭を切り落としても1週間〜10日程度は生きるようです。)
著者は相当手術の腕に自信があるようで、たびたび共同研究者の不器用さについて嘆いていました。

そもそも、著者がわざわざ外国に渡ってこの種の研究を行った理由は、ご主人の「転勤」にあります。
ご主人は核融合を専門とする物理学者で、のちに京大教授となるのですが、若い頃にはポストを求めてアメリカやヨーロッパを転々としました。
著者はご主人の転勤が決まるたびに、転勤先でポストを見つけて同行したのです。
その最初の引越し先であるアメリカでたまたま出会ったのが、サーカディアンリズムでした。
昭和30年代という、海外で働く人も女性の研究者も今とは比べ物にならないくらい少ない環境にしては、驚くべき行動力だと思います。

また、サーカディアンリズムに関する研究の先人や、同時代の競争相手などに対する批判的な発言をみても、著者はかなりはっきりとした方のようです。
著者が帰国に伴ってサーカディアンリズムから足を洗ったのち、10年たってもそれほどの進展がないところを見ると、この分野は学会では傍流なのでしょうか。
現在はさらにそこから35年の時を経ていますが、果たしてどの程度のことが明らかになっているのかは興味があるところです。
内容が内容なだけに、疑似科学的な言説も多そうではありますが…。

過去のいきさつなどは読み物としてすらすら読めますが、専門的な内容の部分は図を見比べて何度も読み返さないと理解しづらいと思います。
実験結果からの理論立ては、まるでパズルを解くようで説得力があるように感じました。

イワン・デニーソヴィチの一日

  1. 2013/08/25(日) 06:12:29|
  2. ★★★★★|
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ソルジェニーツィンの作品は、以前に「ガン病棟」を読んだことがあります。
本書については、複数の人から面白いという噂を聞いていて、いつか読んでみたいとずっと思っていました。
実は、数ヶ月前に仕事で海外に行っていて、その際に本書を持参して一度読み始めたのですが、うっかりホテルに置き忘れたために中断していたのです。
再度購入して仕切り直しでした。

本書の舞台は、旧ソ連スターリン時代のラーゲリ(強制収容所)です。
名目上は思想的な罪を犯したものが収容される場所なのですが、実際は冤罪も多く、ソ連中のあらゆる場所からあらゆる階層の人間が無作為に抽出されて連れてこられた、というのに近い状態だったようです。
本作でも、農民の主人公イワン、エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」について熱く語るインテリのツェーザリ、父親が富農だったために逮捕されたチューリン、まだほとんど子供のゴプチック、元海軍中佐ブイノフスキイ…。
外界での身分がどうあれ、ラーゲリの中では彼らは一様に囚人として平等な立場にあります。

私事なのですが、私は一週間だけロシアに行ったことがありました。
たいした期間でもなく、多くの場所を訪問したわけでもないのですが、それでも読んでいて一番ロシアっぽいと感じた箇所が以下になります。
囚人が夕食のスープを受け取る食堂のシーンです。
窓口は全部で五つ。
(中略)
窓口はあまり高くない。
腰より幾分高いくらいだ。
窓口からコックの顔は見えない。
見えるのはその手とひしゃくだけ。
ロシアではしばしばこのような形の窓口を見かけます。
つまりは、売手と買手、担当者と市民などが、お互い顔が見えない状態で手と声だけでやり取りするように、窓口が低くて狭くなるように設計されているのです。
声さえ聞こえれば、お互いが目と目を合わせる必要はないという、最低限の実用性一点張りの考え方です。
もちろん、保安上の問題もあるのでしょうが、抑圧的、官僚的態度はすべてのラーゲリ側の人物に共通したものです。

極寒のラーゲリにおけるある1日を、感傷的になることなく淡々と描いた作品です。
ほとんど無実の状態で逮捕され、いつ釈放されるかも怪しいという絶望的に厳しい環境でありながらも、日常をユーモラスといっていいほどの文章で描くさまは、見事だと思います。
囚人同士は血の通った付き合いができるのに、ラーゲリ側と囚人側といった身分の違いが生じるととたんに官僚的になるのもロシアらしいと感じました。

奴隷商人ソニエ―18世紀フランスの奴隷交易とアフリカ社会

  1. 2013/08/21(水) 23:49:00|
  2. ★★★★★|
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京都の古本市で購入したものです。
10年ほど前に同じ著者の「可能性としての国家誌」を読んだ記憶があります。
確かこの本を読んで、初めてセネガル最大のイスラム教団「ムリッド(ムリーディーヤ)」のことを知ったのだと思います。

本書は、18世紀末のフランス人ソニエの残した文章をもとに、当時の奴隷貿易の実態を述べたものです。
タイトルは「奴隷商人ソニエ」ですが、実際のところソニエは奴隷貿易で財を成すことを目指して2度西アフリカに渡航しているのですが、どちらも失敗に終わっています。
1度目は到着前に船が座礁してイスラム教徒に人質としてさらわれ、2度目は危険を冒して内陸まで自ら赴いたもののほとんどの商品を失いました。
ソニエは今後奴隷貿易を志す人のために覚書を書き残したようなのですが、奴隷で儲けようとしたとは思えないほどの親切心です。

たまに読んでいる「大航海時代叢書」のシリーズからも感じるのですが、当時の航海における乗員の死亡率の高さは驚異的です。
壊血病の原因が判明していなかった上に、推進力を風に頼っていたために、船員の少なくとも数割が航海中に亡くなり、海に投棄されていました。
それ以外にも海に誤って転落したり、メデューズ号のように座礁した上に脱出用筏の上で餓死したりと、死は非常に身近にせまっていました。
このような状況下でもなお船員を志す人たちの心境は、想像を絶するものがあります。
ましてや、より居住環境の悪かった積荷の奴隷がアメリカ大陸へ送られる際には、相当量が死亡したようです。

本書で繰り返し指摘されるのは、奴隷が人間であるのかモノであるのか、二つの相反する見かたがその時々によって使い分けられていたことです。
例えば、奴隷はキリスト教の洗礼を受けさせ、日曜日は休息させなければならないとされていましたが、これは奴隷を人間として扱っていることになります。
一方で、奴隷は裁判での証言権はなく、かつ売買可能な動産とされており、この場合は単なるモノとして考えられています。
当時はすでに奴隷制度に賛成する人と反対する人のあいだで論争が始まっていましたが、彼らの議論でも奴隷を人とするのかモノとするのかについて混乱が生じていました。
結局、産業革命により奴隷の労働力が相対的に高価なって必要性が減じたことにより、議論の決着を見ないままなし崩し的に奴隷制度は衰退に向かいます。

私は全くの専門外の人間ですが、単純に読み物としても面白い本だと思いました。
すごくいい本だと思うのですが、残念ながら絶版状態なのですね。

帝国日本と朝鮮・樺太 (コレクション 戦争×文学)

  1. 2013/08/18(日) 22:57:33|
  2. ★★★|
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狙ったわけではないのですが、閣僚の靖国参拝関連で韓国から非難が殺到しているさなかに読み始めました。
朝鮮と樺太は別個の話題のように見えますが、実際は朝鮮人が重用されて樺太で働かされるケースが多かったようで、その意味においては樺太問題も朝鮮との関連性が高いのです。

張赫宙の「岩本志願兵」や鄭人沢の「かえりみはせじ」などの、いわゆる「親日朝鮮人」による戦時中の作品は、今読むと本当にひどい内容です。
朝鮮人であっても努力により高潔な大和魂を身につけることができること、そして、彼らが朝鮮人にも志願兵制度、徴兵制度が適用されたことに大喜びしているさまが描かれます。
つまりは、朝鮮人も日本人と同等の戦力として、お国の役に立てる、ということです。

一方で、梶山季之の「族譜」は創氏改名にまつわる偽善性が描かれます。
物語に登場する朝鮮人の地主は親日的な考えの持ち主で、兵士のために大量の食料や金銭を自ら供出した経歴を持ちます。
しかし、先祖に申し訳が立たないと言う理由から、創氏改名だけは拒否し続けます。
創氏改名は名目上は個々人の自由意志に基づくものとされているのですが、実際は強制に近いものであり、改名により日本人扱いして徴兵等の日本人並みの義務を負わせようという思想のものでした。
この物語でも、政府は地主の娘の婚約者が拷問されたり、孫が学校でいじめられたりと、さまざまな嫌がらせによって地主に改名を強います。
結局、かつては自らの身を捧げようとまで思っていた「日本」によって親類の生活が破壊された末に、地主は自殺してしまいます。
一貫してこの話は、当局のやり方に疑問を持つ創氏改名担当の役人の目から語られますが、彼自身、最後には嫌気が指して役所を退職してしまいました。
朝鮮人も日本人と同等に扱ってやろう、という美名?のもとに、朝鮮人に日本人並み、時にはそれ以上の義務を負わせる偽善に対しては、多くの人はひどく鈍感だったようです。

ただ、それ以外の掲載作品では後藤昭生の「一通の長い母親の手紙」を除いては、それほど私の好みに合ったものはありませんでした。
吉田知子の「豊原」は戦後の樺太からの引き上げに関する悲惨な経験を書いたものですが、引き上げの事情以上に母親が相当おかしな人だったようで、戦争の悲惨さ以上に母親が印象的です。
今でいうネグレクトに近い状態だったようです。
あとは、冬木憑の「和人」は樺太に住む原住民少女と、日本人の若い学者との恋物語ですが、よくあるロマンス物にしか見えず…。
ちょっと期待はずれの一冊です。

豚の死なない日

  1. 2013/08/17(土) 00:31:17|
  2. ★★★|
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アーミッシュに興味があって、色々と本を探しています。
ただ、少し検索してみた限りで見つかるのは「アーミッシュ万歳」といった論調のものばかりで、客観的にその歴史や周囲の社会との関係を述べたものが見つかりません。
その過程でたまたま見つけたのが本書です。
本書は、今はほとんど滅亡したクエーカー教徒の親子を題材とした小説ですが、内容を見る限りアーミッシュととてもよく似た生活を行っていたようです。
ネット上の書評見ると絶賛ばかりだったので、ちょっと嫌な予感がしつつも購入してみました。

本書の前半に描かれるのは、自然の中における生活の素晴らしさです。
主人公の少年は、出産時に死にかかっていた母牛を危険を冒して助けたお礼として、一匹の豚をプレゼントされます。
彼はこの豚を家族同様に大切に育てます。
後半では、自然が与える死の厳しさです。
隣人が買う犬にイタチ狩りの訓練をさせるために、犬とイタチを同じ樽に閉じ込めたところ、イタチの反撃により犬は前足を食いちぎられたので射殺して安楽死させます。
その後、豚は不妊症であることが判明したために殺されます。
これらの義務を通じて、少年は大人への道を歩むとのことです。

最後に父との別れがあります。
結核による死期を悟った父は、少年に大人になって母を支えることを命じます。
前述の義務を果たすことで自覚を深めた少年は、立派に父の葬儀を執り行ったのち、日々やるべきことに立ち戻ります。

我々の生活から非常に遠いところにある常識をもとにしているために、ちょっと私には何とも言い難いところがあるように思いました。
特に、結核にかかった父親が医者の診療を拒否するくだりは、正直言ってよく理解できません。
宗教的に定まった死の時期を延ばしてはならない等の教えがあるのでしょうか…。

ムツゴロウの動物王国的な、厳しくもやさしい自然との生活、というような物語が好きな方向けの本のように感じました。

日本的霊性

  1. 2013/08/17(土) 00:15:20|
  2. ★★|
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鈴木大拙については、前々から名前だけは知っていたもののその詳しい思想についてはほとんど知識がない状態でした。
日本人の仏教学者で英語に堪能だというだけで相当の希少価値があるのか、大拙は日本よりもむしろ海外で先に有名になったという話も聞きます。

日本の仏教や禅についての本は、かなり以前に数冊読んだことがありました。
しかし、そのどれも私の読解力では十分に理解できない内容でした。
思想のもっとも核となる部分を中心に、周縁をぐるぐるとまわる議論が延々続くような印象です。
同じことを何度も述べているのですが、結局一番の肝となる部分は伝わらないまま、要領を得ずに読み終わってしまう状態。
実際のところは、ある程度時間をとって寺に住み込んで修行しないと、体得できないということなのでしょうか?
他の宗教についての文献を読んだときには、こういう感覚はあまりないのですが…。

残念ながら、本書についてもこの不得要領な状態は拭い去れませんでした。
まず最初に、日本的霊性なるものが鎌倉時代に確立されたことが延べられます。
なぜ鎌倉時代かというと、万葉の時代は精神の段階が素朴すぎて洗練されておらず、平安時代は貴族文化であって生活に基づいた霊性が育っていないからだ、ということでした。
著者は平安時代の「女々しい」文化があまり好きではないようで、鎌倉の土に根差した武家の生活から日本的霊性が完成したと主張します。
邪馬台国関連の古代本を読んだときに感じる、独りよがりな印象論と似たような印象を受けてしまいましたが…。

その後は、法然、親鸞による専修念仏の教えを中心に、如何にしてその教えが完成されていったかを述べているのですが、どうしてもうまく理解することができません。
どうも、仏教にどっぷりつかっている人と、私のような一般人とでは、いわゆる理解の基礎というか「パラダイム」とでもいうべき部分が異なっているために、お互いに言葉を通じあうことが不可能なのでは?と疑ってしまいます。
単純に私の読解力が不足しているせいなのでしょうか…。

後半、「妙好人」と呼ばれる市井の貧しい篤信家を仏教精神の神髄であると主張する場面があるのですが、これはまさに「宗教」の世界です。
「妙好人」の行為に対する良否判断を共有するためには、仏教の世界にまずは浸りきる必要があるように感じました。

文章の難しさはともかくとして、内容としても全く初心者向けではないように思います。
共感するための下地が備わっていないと、全く説得的に感じられない内容だと思いました。

パレスチナ問題とキリスト教

  1. 2013/08/14(水) 00:33:14|
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本書は、日本キリスト教団牧師がパレスチナや中東のキリスト教を視野に入れて当地の問題を述べたものです。
私も全く理解していなかったのですが、パレスチナ人はそのほとんどがイスラム教徒だというわけではなく、相当数のキリスト教徒も在住しているのです。
しかし、東ローマ帝国によるキリスト教一元統治のための試みであるカルケドン会議において、エジプト土着の反帝国派コプト教会などは異端として総主教が追放されてしまいました。
その後の西洋中心史観において、中東のキリスト教は歴史から完全に無視されることとなります。
西洋のキリスト教徒の多くの人たちは、イスラエル建国の動きを聖書の記載にのっとったものだと主張しますが、これは同じくキリスト教徒であるはずのシリア教会、コプト教会への思いが全く見えません。
本書では、さまざまな視点からシオニズムの動きが神学的にも人道的にも間違っていることが延べられます。

そもそも、シオニズム自体は現在はアウシュビッツの虐殺との関連で語られることが多いのですが、実際はシオニズムのほうが先に誕生していました。
イスラエル建国を達成した労働シオニズム指導部からみたホロコーストに対する見解を、本書は次のように述べます。
「離散ユダヤ人」はパレスチナに移民してユダヤ人国家建設に努力すべきだった。
ホロコーストの犠牲者はシオニズムの大義を信じなかった人々であり、もしシオニズムを信じていたのであれば、パレスチナにやってきてともに闘っているはずだ。
したがって、ホロコースト犠牲者あるいは生存者の死もある意味ではやむをえない。
イスラエル国家がホロコーストを政治的に利用し始めるのは、第三次中東戦争後のことであり、それまではホロコーストによる犠牲者を自業自得とみていたのです。
もともと、パレスチナの地においてはユダヤ人差別もなにもなく、ヨーロッパの地における歪みをパレスチナに押し付けるための言い訳としてホロコーストが用いられてきた側面が指摘されます。
そして、かつてドイツのユダヤ人が遭った災難が、まさに今パレスチナ人に降りそそいでいるのです。

また、イスラエル国内に住むユダヤ人は2種類に分けることができます。
ヨーロッパ出身のユダヤ人と、中東出身のユダヤ人です。
そして、実際にイスラエルの政治、経済を握っているのはヨーロッパ出身のユダヤ人であり、中東出身のユダヤ人はパレスチナのアラブ人に対する防御壁のような使われ方をしてきました。
西欧のキリスト教徒中心の史観からは、前者のヨーロッパのユダヤ人しか見えてきません。
そのため、中東出身のユダヤ人の存在が完全に陰に隠れてしまっているのです。

パレスチナ人の住む地域を隔離したり、中東出身のユダヤ人に二級市民としての権利しか与えないさまは、宗教的なものというよりもかつての南アフリカのアパルトヘイトのほうをむしろ連想させます。
西洋の白人たちは宗教的な化粧を施すことで、単なる人種差別を粉飾して、良心と世論を納得させているのかもしれません。
本書自体は入門書のようなもので、「トーラーの名において」などのより詳しい本への招待といった意味も強いように感じました。

カクテル・パーティー

  1. 2013/08/13(火) 01:13:30|
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本書に収められている5作品のうち、これまで読んできた「コレクション 戦争×文学」シリーズに2作品は収められています。
一つは「アジア太平洋戦争」に掲載の「亀甲墓」、もう一つは「オキナワ 終わらぬ戦争」に掲載の「カクテル・パーティー」です。
それでも、この本を購入したのは「カクテル・パーティー」の完結編ともいうべき「戯曲 カクテル・パーティー」を読みたかったからです。

米軍占領下の沖縄で、主人公上原の娘は近所に住む米軍関係者に暴行されます。
しかし、協定の壁に阻まれて、犯人の米軍関係者を日本の裁判で裁くことはできず、逆に犯人のほうは暴行に抵抗した娘によりけがをさせられた旨で訴訟を起こしました。
その前日には、日米、沖縄の友好を多くのアメリカ人の友人とパーティーで語りあったのですが、裁判に力を貸してほしいという上原に対して、その友人たちは突然冷たい態度をとるようになります。

国同士の禍根はいったん棚上げして、個人レベルでの友好を積み上げることでお互いの信頼関係を作り上げよう。
この理屈は、禍根を与えたほうからよく聞かれるものです。
真珠湾攻撃の是非は棚上げして、日本人はアメリカ人との個人レベルの友好を望む。
原爆投下の是非は棚上げして、アメリカ人は日本人との個人レベルの友好を望む。
米軍基地の問題は棚上げして、アメリカ人は沖縄人との個人レベルの友好を望む。
中国占領の問題は棚上げして、日本人と沖縄人は中国人との個人レベルの友好を望む。
沖縄県人への虐待の事実は棚上げして、本土人は沖縄県人との個人レベルの友好を望む。
多くの関係者が加害者であり同時に被害者でもある錯綜した状態において、これらは一見未来志向で理にかなったものですが、一つだけ見逃されているのは、被害者としての感情です。
上原はこういった棚上げ論を拒否し、
どちらも被害者であると同時に、加害者だということを自覚することからしか、新しい世紀ははじまらない。
おたがいに自分を罰することによって、相手にも徹底的に不寛容になって、裁く資格を得るのだ。
自分をも苦しめることになるけれども、そうすることが、人間としての道なのだ。
といいます。
国家レベルでの対立を、個人同士の関係に持ち込まないでくれという、一見正論とも見える理屈に対して、真っ向から反対し、個人としての反省、不寛容から始めるべきだと主張します。。
交渉においては自分の有利な点のみを強調するのは正道でしょうが、人間同士の関係ではこの正道だけでは何も解決しない、というのが著者のメッセージなのかもしれません。

これに対しては賛否あるのでしょうが、改めて読んで思ったのは著者の軸となった思想の堅固さです。
岩波現代文庫として初めて日本語で戯曲のほうが出版された結果、1967年と1985年の二つの「カクテル・パーティー」を今になって読み返すことができるのは、幸せなことだと思います。

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