- 2012/05/14(月) 22:28:38|
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鉄道や飛行機、自動車などと比べて船舶は、私のような一般市民の目に付く頻度が低いために、どういったものかについて想像がつきづらいように思います。
とくに本書の主題となっている外航海は旅客輸送の割合が小さく、そのほとんどが貨物輸送なので、これに用いられる船を目にする機会はとても少ないのです。
たまたま本屋さんで本書を見つけて、興味を持って購入しました。
外洋航海に用いられる船舶の構造などについてかかれているかと思っていたのですが、実際は物流の契約や仕組みについての解説が主でした。
著者は商船三井で30年間働いた経験を持ち、まさにその経験を活かしたものでしょう。
さすがに、船荷証券などの詳しい話を理解するのは、私にとっては荷が重かったようです。
すべてを理解するには至らなかったまでも、初めて知ることも多く面白く読めました。
普段何気なく目にしているコンテナなども貨物サイズの規格化という意味においては大きな発明だったことや、傭船、海運同盟など…。
専門外の人間ですが、この種の教科書としては読みやすくてよくまとまっているように見えました。
- 2012/05/12(土) 09:49:13|
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敗戦後すぐに、2ヶ月足らずの期間だけ総理大臣を務めた東久邇宮稔彦王については、「
敗北を抱きしめて」で初めて知りました。
これまでで唯一の皇族総理にして、戦争の責任を日本国民すべてが負うべきだとの「一億総懺悔論」の提唱者。
その後も、新興宗教の教祖となったり、その他さまざまなスキャンダルに巻き込まれたようですが…。
本書では、主に東久邇宮稔彦王の総理辞任までが述べられます。
一読した率直な感想としては
- 高貴な家系で世間を知らず育ったお坊ちゃん
- 同様に世間を知らない他の皇族との人間関係のゆがみのせいで、相当ひねくれた性格となった
- それでもなお総理となったのは、敗戦直後の混乱を「皇族総理」の威光で抑えようとしたためだが、他の皇族をみるとさらにひどく、東久邇宮稔彦王以下の人材しか存在しなかった
- そもそも、東久邇宮稔彦王には総理という重責に耐えるだけの能力も気力もなかった
- 「皇族」というだけで、あらゆるところから山師のようなものが寄ってきて利用されてしまうものであるが、軽率な東久邇宮稔彦王にはそれへの対抗力はない
という実もふたもないものです。
たいてい、伝記と言うものは性格に難があったとしても何か偉業を成し遂げるだけの力を持った人について書かれる物です。
しかし、本書は単に皇族に産まれたというだけの十人並み以下の能力の人について書かれてあるので、読んでいてもそんなに面白いとは思えませんね…。
著者の能力と言うよりも、主人公の魅力のなさに起因するものです。
正直言うと、本書で述べられる総理辞任までの期間よりも、戦後の話を知りたかったので、ちょっと私の希望とはマッチしない一冊でした。
資料を丹念に調べこんで、自らの推測と事実を分けて述べているので、文章としてはわかりやすいと思います。
- 2012/05/06(日) 22:43:35|
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ルーゴン・マッカール叢書の9冊目です。
今回の主人公は、「
居酒屋」でアルコール中毒と貧困の中で悲惨な最期を迎えたジェルヴェーズの娘、アンナです。
彼女は早々と両親の元を飛び出し、ナナと名乗って娼婦まがいの生活を送っていましたが、ある日突然劇場デビューを果たし、パリ中の話題をさらいます。
次々と上流階級の男性たちから財産を巻き上げては破滅させることを繰り返し、ついには自らも醜く病死する…。
ナナの死の場面では、背景に普仏戦争開戦の熱狂の声が響き渡ります。
これは、田山花袋の「田舎教師」の主人公が、旅順陥落に沸き立つ中でひっそりと結核で死んでいく様を思い出します。
しかし、ルーゴン・マッカール叢書では第二帝政の始まりから終わりまでを描くという意図が込められていることを考えると、本作のこのシーンはナナの最期と第二帝政の終わりを象徴的に重ね合わせたものでしょう。
主人公の出自が貴族であるか庶民であるかの違いはありますが、「
獲物の分け前」とほぼ同じ構成の物語です。
本作の特徴としては、舞台である劇場の裏方などの猥雑な様子の描写がなされていることでしょうか。
これ単体としては読ませる話なのですが、「獲物の分け前」を読んだ後だと、二番煎じの印象を受けてしまうのが難です。
- 2012/05/05(土) 00:23:12|
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たまたま本屋さんで「タブッキ追悼フェア」とかいうのをやっていたので、ふと購入した本です。
タブッキ自体、このフェアで初めて名前を知ったくらいで、全く予備知識ない状態でした。
インドで疾走した知人を探すために、ボンベイ、マドラス、ゴアを旅する男の物語です。
今だと、「ムンバイ」「チェンナイ」「ゴア」でしょうか。
病院とは思えないほど不潔な病院での医者との不思議な会話、ヴィクトリア駅での死期が近い男との問答など…。
幻想的な雰囲気漂うのですが、なぜ知人が疾走して、なぜ知人を探しているのかについては謎のまま話は進行します。
煙に巻かれたようなぼんやりとした雰囲気を楽しむ小説なのかもしれません。
新書版一冊ですが、文字がとても大きいのですぐに読み切ってしまいます。
あまり深く考えずに、インドの夜の情景に身を任せるのがよいのでしょう。
- 2012/05/04(金) 23:22:29|
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本書は、紀元前401年にペルシアのキュロスが兄から王位を奪うために行った侵攻と、キュロス戦死後に残された軍隊による敵の領地内から脱出を記録したものです。
進軍はアナトリア高地を西から東へ横断して今のイラク北西部まで、そこからの脱出は北へ向かって地中海からイスタンブール付近まで、合計すると6000キロメートルに及ぶ長距離の進軍でした。
とくに、脱出時の冬季の山地越えは過酷で、凍死するものや凍傷にかかるものが多数発生したようです。
あっさりとは書いてあるものの、見るに堪えない光景が日常的に見られたことでしょう。
捕虜の拷問や見せしめの処刑、道中における物資調達のための略奪などは日常的に行われていたようです。
このあたり、西洋も東洋も古代における残虐さは全く一緒です…。
ただ、よくよく考えると今でもアフリカや中東、中央アジアの紛争地域では全く同じことがなされているのですね。
平和な環境で生きている私には正直言って想像もつかない世界なのでしょう。
淡々とした文章ながらも、軍隊が反乱しそうになったり、不意打ちを食らって大きな犠牲が発生したりと、よくも帰還できたものだと思います。
こういった本の例に違わず、本文よりも解説を先に読んで背景を理解したほうがいいように思います。
あと、巻末には地図が添付されているので、これを参照しながら読まないとよくわからないでしょう。
- 2012/05/04(金) 01:14:27|
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本屋さんに行くと、この報告書が目立つ場所に大量に並んでいました。
こんなものが、気軽に一般書店で、しかも1500円という比較的お安い値段で手に入るというのはすごいことだと思います。
本書のタイトルにある「独立検証委員会」というのは、完全に民間が主体となって立ち上げられたものです。
つまり、政府の依頼で有識者が呼び寄せられて「独立検証委員会」を作ったのではなく、自主的に民間人が集まって構成したものです。
よって、政府側とも東京電力側とも利害関係の薄い状態で調査できたのは、価値あることなのでしょう。
ただし、調査の過程で必要な協力が、東京電力の幹部と福島県からは得られなかったようで、政府関係者、官僚、市町村、東電の一従業員やOBなどの証言をもとにした報告書となっています。
本書で、最も印象に残った場所を引用します。
安全神話はもともと立地地域住民の納得を得るために作られていったとされますが、いつの間にか原子力推進側の人々自身が安全神話に縛られる状態となり、「安全性をより高める」といった言葉を使ってはならない雰囲気が醸成されていました。
電力会社も原子炉メーカーも「絶対に安全なものにさらに安全性を高めるなどということは論理的にありえない」として彼ら自身の中で「完全性向上」といった観点からの改善や新規対策をとることができなくなっていったのです。
本来ならば、事故を防ぐための対策と、事故が起きた場合の被害を最小限に抑える対策は別個のものとして進められるべきものでした。
しかし、日本では事故を防ぐための対策が完璧なので事故は起こりえず、よって事故が起こった後の対策は必要ないという結論に傾いたのです。
実際、フランスなどと比べても、軽微なトラブルによる計画外停止時間は1/10程度だったようで、これが日本の原子力関係者による安全へのおごりを生んだのでしょう。
そもそも、原子力プラントについて十分な知識を持った技術者というのは、数が限られます。
原子炉を保有する電力会社を規制する立場にある、原子力安全・保安院、原子力安全委員会のどちらにも、規制を立案するだけの十分な知見が必要なのですが、そういった知見を持った人は、そのほとんどが電力会社の社員かOBなのです。
しかも、原子力安全・保安院も原子力安全委員会も、どちらもトップが官僚の例にもれず当該分野の専門家ではありませんし、数年の移動でローテーションするために、単なる事務的な折衝のみが役目となってしまいます。
このような状態では、規制側たる国と被規制側たる電力会社の間の緊張感が保たれることなく、唯々諾々と電力会社の主張する安全神話を受け入れてしまったというのが真相のようです。
また、関係した官僚組織すべてが、平時における管理監督しか経験したことがなく、今回のような異常事態に対する備えが全く不足していたということもあるようです。
事故対応機関を通じて原子力安全・保安院や、原子力安全委員会からは、まともな提案、助言が官邸にあがってくることはありませんでした。
原子力安全委員会の斑目委員長が何のサポートを受けることもなくたった一人で、突然総理から意見を求められては、情報不足や経験不足により誤った進言をして信頼を失う、という悪い循環に陥ったようです。
(斑目委員長個人の資質としても、官邸メンバーと違ってこういう「修羅場」には全くの不慣れだったような印象を感じました。)
官僚組織の力不足の最たるものが、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム「SPEEDI」を管轄する文部科学省です。
早期の段階でSPEEDIの運用やデータ公開を原子力安全・保安院に丸投げして、責任逃れといわれても仕方のないような対応をとりました。
放射能漏えいに備えて数十年間にわたり開発されてきたはずのSPEEDIについては、官邸はその存在すら知らないまま時間が経過してしまい、初期の避難にはいかされませんでした。
管総理が、放水車の台数や種類まで電話で事細かに指示したことに対して、マイクロマネジメントの最たるものだという批判もあったようですが、これほど官僚機構が機能しなかった以上やむを得なかったのかもしれません。
(平時における管総理の人遣い下手という資質に対しては、それはそれで別に考えるべきものでしょうが。)
事故当初は、アメリカ政府は日本政府から十分な情報が得られずに不信をつのらせたようです。
これについて、日本政府が得た情報を故意にアメリカ側に隠していると思われたためなのですが、実情は官邸も情報集めと整理に四苦八苦している状態でした。
アメリカ側がこの事態を理解すると、不信がとけるとともに日本に対する有効な援助体制についてようやく議論できるようになったのです。
これは、日本政府と国民の関係にも似ているのかもしれません。
たとえば、SPEEDIのデータを官邸が「故意に隠した」と考えた国民は官邸に対する信頼を大きく損ないましたが、実際は隠したというよりも、その存在自体を把握できていなかったのです。
一対一の人間関係でもよくあることとはいえ、このあたりの率直な状況説明が不足していたことも、課題ではあるでしょう。
本書は単なるインタビューのまとめだけではなく、論文や学会発表なども利用した体系的な文章となっています。
文章自体は読みやすいのですが、略語についての索引がなく、特に図に用いられる記号が何を意味しているかの説明が全体的に不足しているため、原子力の専門家以外が読んでもよくわからないところがあるでしょう。
それでも、この種の本にしては例外的といってもいいほど読みやすいと思います。
忙しい方は、序章、第一章から三章、五章、最終章だけでも読めば、大まかな流れはつかめるでしょう。
- 2012/05/01(火) 01:33:46|
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ネット上に、おすすめのライトノベルとして挙げられているのをみて購入してみました。
城平京は私にとっては初見ではありません。
かつて「少年ガンガン」という雑誌に「
スパイラル―推理の絆」という漫画が連載されているのを読んでいたのですが、この原作者が城平京でした。
私は好きな作品だったのですが、推理物をよく読む人からはトリックに無理があるという評判を聞くことが多かったように思います。
本書の舞台は、現代日本の一地方都市です。
不祥事による謹慎中に、事故で亡くなったアイドルの亡霊による殺人を止めるために、主人公2人は戦いを挑みます。
主人公の一方は、幼いころに人魚の肉を食べさせられて不死身となったという男性。
彼は同時に、未来を予言してすぐに死ぬという妖怪「件」の肉も食べさせられたために、不死と予言能力の両方を手に入れました。
もう一人の主人公は、妖怪に誘拐されて彼らの主となり、代価として片目と片足を失った少女です。
本書では、「妖怪や怪物は、人々がそれを信じる力をもとにしてこの世に存在する」という前提のもとに、怪物も人々の噂によって生み出されたものだという筋書きとなっています。
そして、現実に発生してしまった怪物を消滅させるために、怪物など存在しないというもっともらしい虚構をネット上に広めて、人々が怪物の存在を信じないように導くという設定となっています。
物語の前半で妖怪に関するうんちくがでてきたところでは「
姑獲鳥の夏」などのいわゆる「京極堂シリーズ」を思い出しましたが、読み進めると「スパイラル」でも見られた畳み掛けるような「解決編」が見られて懐かしい気持ちになりました。
特に後半はテンポよく読めるのでなんだか納得させられるのですが、緻密に論理を追っていくといろいろと問題があるのかもしれません。
それでも、軽く読めるミステリとしては十分な内容のように思いました。
- 2012/05/01(火) 01:04:50|
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一つずつ順番に読んでいる「コレクション 戦争×文学」のシリーズです。
戦争という題材から見て政治臭、イデオロギー臭を拭い去ることは不可能なれども、前回読んだ「
ヒロシマ・ナガサキ」ではあまりにも左翼的に力のこもった作品が多くて戸惑ってしまいました。
もう一、二冊読んでみて合わないようならこのシリーズを追いかけるのをやめようかとも思いながら…。
本書のタイトルは非常に不適切です。
いわゆる9・11のアメリカ同時多発テロと、それに起因したイラク、アフガニスタン派兵を扱っているのは本書に収められている作品の約半分に過ぎません。
それ以外はユーゴスラビア内戦、シエラレオネ内戦、さらには日本内戦への試みともいえる地下鉄サリン事件や架空の放火事件などを題材としています。
この意味においては、冷戦後の新たなる不安定一般がすべて詰め込まれた一冊だといえるでしょう。
太平洋戦争当時の日本においては、治安悪化などはあったでしょうが少なくとも昨日までの隣人が今は敵だという例は少なかったように思えます。
程度の差はあれども、日本人の多くは国家の勝利に向かって比較的秩序を保った状態で動員されており、敵国側の兵士と日本側の兵士が入り混じるということはありませんでした。
一方、本書に収められている事象においては、故郷を同じくする二つ以上の集団が激しい戦闘を繰り広げることが多いのです。
「零歳の詩人」では、ボスニア内戦下において地下に潜伏する一般市民が主人公となっています。
戦闘が発生する以前には顔見知りであった兵士が、同じ地域に住む女性を集めて暴行するシーンがありますが、これなどまさに典型的なものでしょう。
かつての国家間戦争では敵は外からやってくるものだったのに対して、内戦では敵は内部に存在するのです。
「
モザンビーク解放闘争史」「
戦争と平和の間」「
戦争と平和の間」など様々な本でも言われていることですが、内戦後には住民同士の和解が困難であり、すぐそばにはかつて自分を殺そうとしたり、親類を殺したりした人がのうのうと生きている状態での再出発となるのです。
基本的に国民が皆同じ夢を見ることのできた日本人は、まだこの点においては恵まれているのかもしれません。
「ヒロシマ・ナガサキ」に比べると政治的な意図を持つ作品は少なく、どちらかといえばどうしようもなく割り切れない心の動きなどに主眼が置かれているように感じました。
前述の「零歳の詩人」や、シエラレオネ内戦を題材にした「義足」などは、相当生々しい描写が含まれるために、読むのに相当な苦痛を感じる方もいらっしゃるかもしれません。
一方、イラク戦争勃発の前後5日間を扱った劇脚本「三月の5日間」や、オウム事件に出会った日の男を描いた「ゆで卵」は、相当にふざけた文体で語られます。
とくに、イラク派兵反対デモを見物に行こうとして、日を間違えて失敗したという「姫と戦争と「庭の雀」」などは「モマエラ」「マターリ」などといったいわゆる「2ちゃんねる語」がふんだんに使われており、この一冊に含まれる文体の多様さには目もくらむばかりです。
正直言えば、「姫と戦争と「庭の雀」」はあまりにも口語体すぎて私には読みづらく感じました。
最近の若い人はすごい文章書くな…と思ってプロフィール見てみると、著者の笙野頼子は1956年産まれで、私より20歳以上年上なのですね。
お見それしました…。
- 2012/04/25(水) 22:16:30|
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最近刊行が始まったみすず書房の「始まりの本」シリーズの一冊です。
ある分野において活発な議論を起こすきっかけとなった文章を集めたシリーズのようですが…。
手触りとか分厚さとかが、同じ出版社から発行されていた「大人の本棚」シリーズとそっくりで、多少いやな予感です。
「大人の本棚」シリーズは「
老年について」「
病むことについて」の二冊を読んだのですが、翻訳も微妙だったし、内容は寄せ集めだったしであまりよい思い出がないのです。
私が本書を読んだきっかけは「
なぜ科学を語ってすれ違うのか」で、文系対理系論争の元祖として、参考文献で挙げられていたからです。
私自身は、今現在は理系の職についています。
しかし、別段数学が得意と言うわけでもなく、自分で自分に理系の素養がそんなに備わっているような気もしていません。
だからといって、文系の能力が高いような気もしないので、端的にいうとどっちつかずなのでしょう。
私が文系対理系の論争に興味を持つのは、自分自身がどちらともいえないからかもしれません。
本書の著者であるスノーは、原子物理学を確立したことで有名なラザフォードのもとで、実験物理学者として働いた経験を持ちます。
その後、推理小説などの文筆家へ転進し、後には学識者、講演者として発言が注目される存在となりました。
本書は、すでに名声を確立したスノーが1959年にケンブリッジ大学で行った講演を元にして作られたものです。
本書でいわれる「二つの文化」は、文学と科学の世界を表しますが、著者はこの二つの文化に対してそれ以外にも特性を付与しています。
文学は貴族的で伝統を重視するのに対して、科学は実力主義的で未来志向であるという点です。
スノーは名家の出身と言うわけでもなかったためか、この二つの文化の中ではどちらかというと科学のほうを重視し、科学の力で世界をより幸福にするためには二つの文化が相互に理解しあわなければならないと述べます。
そして、この主張が大衆文化を激しく嫌う文学評論家のリーヴィスの逆鱗に触れ、激しい議論が始まることとなるのです。
過去の文献をもとにした学問が全盛だった頃に、クロード・ベルナールの実験生理学が激しい批判を浴びた様子が「
クロード・ベルナール文選集」を読むとうかがえますが、本書を読んだときにも似たような印象を受けました。
今となっては文系と理系の融合が、少なくとも悪ではないことは広い合意が得られているとは思うのですが、当時は工学の普及自体が世界の俗悪化と考える人もいたのでしょう…。
本書の翻訳はあまりこなれているとはいえないと思います。
また、講演をそのまま論文化したためか、いまいち議論が発散しているように見えるところもありました。
歴史的な意味のある一冊だとは思うのですが、それ以上の興味を持って読んでも得るものは多くないかもしれません。
- 2012/04/22(日) 23:02:49|
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本書は、ポツダム宣言受諾からサンフランシスコ講和条約締結までの約5年間における、日本の政治体制の移り変わりと、日本人の意識の変化について述べたものです。
1999年に原著が英語で出版されると、すぐさま各国でベストセラーになったそうです。
その後、2001年に旧版が邦訳されたのですが、その際には原著で用いられた写真や図版が大幅に省かれてしまったとのことで、2004年に新たに増補版が出版されました。
本書のタイトル「敗北を抱きしめて」を見て以来、ずっと読んでみたいと思って気にはなっていたのです。
今回たまたま読むべき本が枯渇して、amazonに発注する際にブックマークに入っていたのを思い出して一緒に注文しました。
上巻では主に、外からみるとあれほど狂信的であったように見える日本人が、敗戦を機に突然功利的になり、状況にすばやく対応したさまが述べられます。
私自身、あんまり戦中戦後の一般市民の生活については詳しくありませんでした。
ポツダム宣言受諾から進駐軍上陸までの数週間の間に官僚、政治家、財界人が競って国家の財産を横領して、闇市に流したことなどは正直言ってびっくりです。
一般市民の多くが物不足と異常なインフレの中で生と死の境目に立つ中で、一部の特権階級の人々は火事場泥棒的に大金持ちになったのです。
こんなことがおきれば、日本国家と言うものに対する信頼が崩壊し、対照的に進駐軍への期待が高まるのも当然です。
私はこれまで近代経済については、比較的財界の側に立って書かれた本を読んできました。
「
住友石炭鉱業」や「
住友銀行」などの社史、「
関西系総合商社」や「
日本経済の発展と企業集団」などの財閥史、「
日本流通史」「
近代日本人物経済史」などの経済一般について触れたもの…。
これらを読むと、どれも戦中の苦しい中を社員一丸となって乗り越えたといったような、美しい話が主体となっています。
しかし、実際はここに挙げられたような会社の、とくに重役達が終戦のどさくさにまぎれて一体どの程度の国家財産を横領したのかは、謎のままなのですね…。
もともとは、戦前の日本の国際競争力のある程度は、極端なまでに安い労働賃金によるものでした。
つまりは、西洋に比べて労働運動が厳しく制限されていたために、民衆の給料が低位で抑えられていたのです。
いまとなっては日本は比較的平等に近い社会だといわれたりもしますが、戦前はこれとは程遠い状態だったのですね。
進駐軍が日本政府に、労働権なども含めた徹底的な民主化を求めた際に、日本人の多くが熱狂したのもなるほどと思わされます。
その後の「逆コース」への失望も想像に難くないですが…。
本書では、日本社会の上層から下層まで、とても広い分野について触れられています。
そのため、内容は長大で、比較的読みやすい文章であるにもかかわらず、読み通すには相当な気力が必要なように思います。
なかばタブー化されているために日本人が触れることが難しい天皇の戦争責任についての話題にも、かなり突っ込んだ議論がなされています。
「
歴史としての戦後日本」にも似た自由さを感じました。
- 2012/04/15(日) 23:54:22|
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以前読んだ「
見えない震災」で、参考文献として挙げられていたものです。
「見えない震災」で取り扱われていたのは地震に関する安全神話でしたが、本書では犯罪についての安全神話が述べられています。
本書の刊行は2004年ですが、ちょうど世紀の変わり目はオウム事件や池田小学校事件などで、人々の警戒心が強まった時期のようです。
本書の前半では、統計から定量的にみて、決して過去と比べて日本に犯罪が増えたわけでも凶悪化したわけでもなく、むしろ史上最も安全な状態にあることが述べられます。
解決が困難な事件について被害届を受理しないという「前裁き」を取りやめたり、市民からの軽微な事件の通報数が増えたりしたために検挙率が下がったことなどで、数値が一人歩きしたようです。
また、かつては繁華街や夜といった、犯罪が多発する場所や時間には多くの人は外出を控えていたので、一般市民にとって犯罪は遠い世界の話でした。
しかし、時代が進むにつれてこうした場所にも子供や一般の主婦などが出歩くようになり、犯罪が身近なものとなってしまったのです。
もともとは軽微な犯罪については、警察に通報するよりも前に地域の住民が当人を諭してすますことが多かったそうです。
また、コミュニティが親密であったために、少なくとも一般市民が生活する住宅街では犯罪自体が発覚しやすく、行動に踏み切りづらいものでした。
つまりは、共同体に束縛されるというコストと引き換えに、住民が犯罪抑止にある一定の役割を担うことにより、安全への信頼性が確保できていたのです。
下記、引用です。
共同体から「自由」になった人々は、(中略)好きな時間に、どこにでも出かけて、その上で安全を要求する。
合理的な判断ができる責任が持てる個人ならば、完全な安全など実現できるはずはなく、しかも、要求するだけでなく、自分達が協力することを考えねばならない。
安全神話に守られなくなった後に生まれたのは、不安に耐えられない、個人とも市民とも呼べない「要求の高い住民」であった。
犯罪にかぎらず食品や、その他工業製品、自然、あらゆるものの安全についても、当てはまりそうに思えてきますね…。
本書の前半はとても定量的な議論がなされているのに対して、後半は打って変わって突然定性的な議論となります。
また、同じ参考文献を繰り返し利用していることから、やや説得力に欠ける部分があるように思いました。
犯罪という題材を扱う以上、明かすことの出来ない実例があることもわかるのですが…。
- 2012/04/10(火) 21:43:08|
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大阪駅前ビルの古本屋さんで見つけて、なんとなく購入してしまいました。
以前に読んだ「
日本経済の発展と企業集団」などで理解が不十分だった部分を補填できれば…くらいの気持ちです。
本書で取り扱われる時代は、主に明治維新から第二次大戦までです。
はっきりと読み取れるのは、時代を下るにつれて財界の中心人物が高年齢化することです。
明治初期においては20代、30代から時代の中心となって活躍する人物が多いのに対して、昭和になると殆どの人が40代以降になってやっと頭角を現します。
これは、「
島々と階級」においてパプアニューギニアなどについて述べられているのと全く同じで、社会の動乱期には年齢に関係なくのし上がるチャンスがあるのですが、安定期に入ると若者の付け入る隙がなくなるのです。
本書では、野口遵の創業した日本窒素肥料(現チッソ)や、森矗昶の創業した昭和電工についても述べられています。
しかし、これらの企業が引き起こした水俣病や第二水俣病については全く触れられていません。
これは、本書の刊行が昭和30年であり、まだ水俣病が表面化していなかったためです。
環境汚染については、当時は全く考えられていなかったのですね…。
本書は「人物経済史」という題名のとおり、各章が人名によって区切られています。
しかし、とくに大正期には結局のところ人ごとではなく、時系列でだらだらと経済界の出来事が並んでいるだけの箇所もあり、そんなに読みやすい本ではありません。
今となっては死語となりつつある「ダライ盤」という単語が頻繁に出てくるのは、時代を感じさせられますね。
*「ダライ盤」=「draaibank」(オランダ語)で、「旋盤」の意です。
- 2012/04/01(日) 23:10:49|
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順番に読んできたルーゴン・マッカール叢書の8冊目です。
「
居酒屋」と「
ナナ」の間に書かれた、優しさと穏やかさに満ちた休息となるべきもの、との触れ込みでしたが…。
本書の主人公はルーゴン家、マッカール家の始祖たるアデライド・フークからみて孫に当たるエレーヌとその娘ジャンヌです。
エレーヌはアデライドの子孫にしては珍しく安定した性格の持ち主であり、夫と死別した後も自己抑制と娘への愛のなかで静かに暮らしていました。
しかし、その娘ジャンヌは精神病で世を去ったアデライドの性質が強く現れており、ショックを受けるとひきつけを起こして意識不明に陥ることもしばしばです。
とくに、愛する母に近づくものに対しては激しい嫉妬を表し、普段の穏やかさと美しさを失ってヒステリーを起こすこともあります。
ある日、ショック症状のジャンヌを往診したことがきっかけで、医師ドゥベルルとエレーヌは知り合い、いつしか彼らは恋に落ちるようになりました。
すでに結婚していたドゥベルルとの関係にエレーヌは罪の意識に悩まされますが、上流階級の乱れた恋愛関係を目の当たりにすることで、たがが外れたようにドゥベルルとの逢引を行うようになります。
しかし、母に見捨てられたと感じたジャンヌが病に倒れることでエレーヌは正気に戻ったのです…。
ルーゴン・マッカール叢書にしては珍しく、登場人物は常識人ぞろいです。
人を狂わせ、なおかつ去ってしまった跡には何の痕跡も残さない恋愛というものをえがいたようですが、これまでのシリーズと比較するとありがちな内容に思えました。
比較的評価が低いせいか、長らく邦訳されないままだったのも納得させられてしまいます。
- 2012/04/01(日) 22:30:12|
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大阪駅前ビルの地下にある古本屋さんのワゴンで50円で見つけて購入した本です。
著者は私鉄労連の幹部として、労働運動を組織してきた経験を持つ方のようです。
挟んであった広告によると、本書は「'75春闘特選図書」のうちの一冊。
オイルショックなどにより、高度経済成長に影がさしつつある時期ですね。
民主制においては、より多数の支持を得たものが力を得ることができます。
そのため、理屈の上では、たった一人の専制君主が好き勝手に振舞うよりも、より一般市民の利益にかなった政治を行うことができるのです。
しかし、実際には、専制体制側が強制的により多くの市民に支持を表明させることで、名目的には民主制の体制下で実際には専制的な政治が行われるという転倒した状況が発生することもあります。
国名に「民主」という単語が入っている国ほど、実際の民主制から離れているという笑い話もありますが…。
本書で扱われている労働組合についても、似たようなことを考えてしまいました。
下記、本文中からの引用です。
労働者の力とはなんであるか?
その力の第一は労働者が「生産」をにぎっているということであり、その第二は労働者は常に「多数」を占めているということである。
「生産」はともかくとして、労働運動においてはいかに多くの労働者の支持を得ることができるか、ということがまさに鍵となります。
ストライキなどでも労働組合に造反した労働者による「スト破り」が何より嫌われますし、組合幹部を選ぶ選挙でも投票率をできるだけ100%に近づけるよう最大限の努力が行われます。
しかし、数を重視するあまり、労働組合が労働者に対して脅したりなだめたりして自らの路線と協調することをしいることも多いように思います。
本書を読んでも、ところどころ透けて見えるのは、自由意志を持つ労働者に支持を呼びかけるというよりも、労働者を「教育」して「動因」するべしというゆがんだ民主主義的考え方でした。
左翼運動で、暴力的な内ゲバによって不満「分子」に対して徹底的に弾圧を加えるというのも、似たような体質によるもののように思います。
私自身、以前勤めていた会社の労働組合の会議で意見を述べたところ、あとで呼び出されて労働組合の公式見解に反する意見は公式の場ではご法度だということを屑々と説かれたことがあり…。
もうひとつ印象的な箇所を引用します。
常識や支配的思想とのたたかいの武器は教宣活動である。
(中略)
このなかで明らかにすべき大切なことは、次の諸点である。
(中略)
社会主義国の労働者の事実について知らせていくこと、社会主義は「未来」の問題でなく現実であることを事実で知らせていくことが大切である。
このことは、労働者をみずからの要求で立ち上がらせるうえで不可欠な要素である。
ソ連が崩壊し、中国が資本主義的な政策に転換した今読むと、あまりにも的外れな文章です。
このあたりの総括を行わなず、昔どおりの体質を保ったままの左翼系団体の主張には、説得力を感じづらいですね…。
- 2012/03/25(日) 23:39:04|
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以前読んだ「
アジア太平洋戦争」と同じ、「戦争×文学」のシリーズの一冊です。
本書には、2発の原爆投下の瞬間とその後の影響、そして被爆二世、三世の苦しみ、さらにはビキニ環礁での水爆実験による被爆の問題について取り扱った中短篇が収められています。
原水爆については、日本では戦争の文脈の中で最も語られることの多い話題なのでしょう。
アメリカという一国家が、国家対国家の争いの中で落としたものなので、政治と関連付けられるのは当然ではあるのですが、個人的にはイデオロギー的に利用されすぎた題材でもあるように思います。
実際、本巻でも井上ひさし、井上光晴、大江健三郎、小田実などの共産党系の主だった作家がオールスターで登場しています。
弱者へのエンパワーメントという本来の左翼的思想と、マルクス主義をゆがめて解釈したソ連共産党的思想がごっちゃになって主張されるという混乱の中で、原水爆も妙な扱われ方をしたように感じたりもしています。
「アジア太平洋戦争」では個々の戦闘における凄惨な場面も描かれていましたが、それよりも長期にわたり人の心を腐敗される過酷な日常に重きが置かれていました。
一方、「ヒロシマ・ナガサキ」で扱われる原爆は、より短期間のうちに生活を崩壊させました。
そのためなのかどうかわかりませんが、小説というよりも生の体験をそのままつづった回想といった印象をうける作品が多く見受けられます。
そんな中で、非現実感を漂わせた被爆地で出会った男女を描いた「残存者」や、被爆後に生地である朝鮮半島に娘とともに帰国した母の苦悩を題材とした「暗やみの夕顔」は、フィクションとしての面白さも兼ね合わせていたように思います。
というより、かつてのプロパガンダ小説でもそうなのですが、事実を事実としてだけ書いたものは、よほどうまく作らないと読んでいてもしんどいだけになってしまうような気もしますが…。
本巻は本巻で面白いのですが、私自身の感想をいうと「アジア太平洋戦争」よりも読んでいて疲れました。
小説に学びを求める人ならいいのかもしれませんが、どちらかというと娯楽を求めている私にはちょっと向いていない一冊だったかもしれません。
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