容量2GB!アクセス解析&動画ファイルも可能な無料ブログ。アフィリエイト完全対応。
  最新画像一覧   /    おもしろブログが満載! シャッフル ブログ  /     無料登録  

スルタンガリエフの夢―イスラム世界とロシア革命

  1. 2009/05/30(土) 19:19:25|
  2. ★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
ジュンク堂で購入。
半年ほど前に中央アジアについての本を探したことがありました。
ちょうど、「現代中央アジア」を購入したころのことです。
そのから気になっていた本ですが、なんとなく買いそびれていました。

本書では、ロシア革命前後の共産党と、タタール人ムスリムとの同盟とその崩壊について述べられています。
ヨーロッパ人中心の考え方により、中央アジア人を対等な存在とみなさなかった共産党により、タタール人の民族自決的な共産主義の夢ははかなくも崩れてしまいます。
ロシア帝国時代に中央アジアに入植したロシア人農民さえタタール人をまともに相手のできる存在とみなさず、搾取への抵抗を主張しながらタタール人を搾取するといった矛盾に全く気づかない様子は、「強者の論理」を振りかざす人間に共通の無頓着さを表しています。

その一方で、タタール人自身の考え方も「強者の論理」に侵されます。
バシキール人などのより弱小な民族について、その独立性を認めず、強引にタタール人と同化した政体を作り上げようとして、反発を受けます。
タタール人の敗北は、最終的にはスターリンによる指導者スルタンガリエフの粛清により決定付けられますが、遠因としては少数民族を掌握できなかったこともあることが指摘されます。
被害者であると主張する者が、自らの加害者性を過小評価してしまう…世界のあらゆる場所で繰り返されてきた出来事のように思います。

本書では、左翼の内部抗争にありがちな離合集散、論点のよくわからない非難合戦、レッテル貼りについての記述が多く見られます。
正直言いまして、○○主義的××主義とかいった言い回しにはうんざりさせられることもありまして、読み通すにはそれなりに気力のいる本だと思います。
それでも、当時のタタール人エリートたちの情熱を感じることができるので、興味があれば読んでみる価値はあると思います。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

多言語社会インドネシア―変わりゆく国語、地方語、外国語の諸相

  1. 2009/05/24(日) 19:24:20|
  2. ★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
ジュンク堂にて購入。
めこん社の本は、意識していないのですが年1〜2冊くらい買ってしまいます。

本書では、戦後独立を果たしたインドネシア国家によるインドネシア語推進政策を中心に、地方語や華人による中国語再興の動きなどが述べられています。
スカルノ、スハルト期にはインドネシア語以外の言語は公的に使われることはなくなり、特に都市部の若者層にはインドネシア語のモノリンガルが増えてきているそうです。
これに対しては、あるバリ人は「言語は単なる道具だから、バリ語が滅んでもバリ人の文化が滅びるわけではない」と考え、一方あるサマ人は「サマ語を話す人間がサマ人だ」と言う考えを持つなど、受け止め方は様々です。
よく、「滅び行く言語は救わなければならない」という議論を見ますが、この根拠については正直言ってよくわからないところがあります。
言語帝国主義とは何か」では、英語などのいわゆる「世界共通語」がそれぞれの地方語を駆逐する過程において文化的侵略が行われているのだ、といったようなことが書いてありましたが、だからといって経済的に有利になるために英語のみを使うようになる人々を責めることはできません。

私は、本書の以下の部分が言語保存運動の本音を語っているように思います。
1990年代からこのような言語(「危機言語」と呼ばれる)を記録し、教育などを通じて可能な限りにおいてコミュニティの維持を支援しようという動きが生まれた。
ここで指摘しておかなければならないのは、この動きが、言語学者を主たる担い手とする学問的色彩の強いものであるということである。
言語数の減少は、人間の言語が実現しうる種々の可能性を示すサンプルの減少であり、それが進めば言語学研究の発展は道を閉ざされる。
このような学問的危機を回避することが、この運動の本来の目的である。
個人的には、妙な正義感を振りかざすよりも率直で好感の持てる意見だと思います。
しかし、言語保存の動機がもし上記の内容で言い尽くされてしまうのなら、これに対してはほとんどお金をかけることはできないでしょう。
結局のところ、滅び行く言語を人為的に救い出すことは難しく、世の中の大きな流れに任せるしかないのかもしれません。

本書には教授クラスの方からポスドクまで、様々な身分の方による文献が掲載されています。
ただ、内容の面白さには、かなり差があるように思います…。
事実を単に述べているものや、調査したらこうだったレベルの文章もあり、せっかく面白い文献もあるのに、平均値を下げているように思います。
私のような一般人が読むものではなく、専門家が資料として読むべきものなのかもしれませんが。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来

  1. 2009/05/20(水) 00:08:01|
  2. ★★★★★|
  3. トラックバック:1|
  4. コメント:0
私には珍しく、他の方の読書感想を読んでamazonにて購入しました。

私の頭の中には昔から、戦争や虐殺がなぜ起きるのか、という疑問がずっと居座っています。
というよりは、どういうときに人は、自ら進んで人を殺そうとするのか、といったほうが正確かもしれません。
この疑問は、平和主義的な思想から来ているものではなく、どちらかといえば興味本位なものです。
(もちろん、騒乱が起きるよりは平和であるにこしたことがないのは、当然ですが。)

人が人を殺すことは、相当な体力と精神力を消耗することだと思います。
また、たとえ人を殺すことに全く罪悪感を感じなかったとしても、殺される側の抵抗や報復から身を守ろうとすると、殺す側も相当なコストを負うことになるでしょう。
それにもかかわらず、これまで起きた戦争では、多くの兵士は徴兵されたわけではなく、志願して戦場へ赴いてきました。
他人を殺す場に自らを投じ、場合によっては自分の命を進んで投げ出すようなところにまで人を駆り立てるものは、果たして何なのでしょうか?

国際紛争」では、ペルシア戦争の時代からの紛争の大きな原因として、何を考えているかわからない者を相手にしたときの不安感が述べられています。
これは、個人的にはかなりの部分において、現実を説明できているような気がします。
例えば、日本が太平洋戦争に参戦した理由の一つを、西欧列強に食い物にされる不安とすることは可能でしょう。
しかし、だからといって、あれほど無謀な戦争に、国を挙げて熱狂的に突入してしまった原因を、全て説明できるような気もしません。

また、「大量虐殺の社会史」では、ルワンダにおけるジェノサイドの原因の一つとして、植民地時代から続く民族間の経済、身分格差を挙げています。
ルワンダの旧宗主国であるドイツとベルギーは、少数民族のツチ族を支配民族として優遇し、多数派のフツ族を差別しました。
これによって、フツ族内部には不満が長期間にわたって鬱積し、ついにはツチ族の虐殺につながったというものです。
これもかなり良い説明だと思うのですが、それならなぜ長年差別され続けているインドの下層カーストに属する人々が、内乱を起こさないのでしょうか?
また、なぜもっと前でもあとでもなく、1990年代前半のあの時期にルワンダの大量虐殺は発生したのでしょうか?
完全な理論はありえないといいつつも、やはり上記の議論だけでは説明しつくせないところがあるように思います。

また、「文明の衝突」では、文明間の根本的な価値観の違いが国際的な戦争の原因とされています。
しかし、これではほぼ同化していたルワンダの部族間対立は説明できないように思います。
確かに、当人同士にしか分からない違いがツチ族とフツ族の間にはあったのでしょうが、これを「文明の衝突」といってしまうと、全ての人間同士が違う文明を持つことになりかねません。

本書では、社会や政情の不安定の第一原因として、「ユースバルジ」つまりは若者世代があまりにも多い人口構成にあるとしています。
一組の両親から平均して7人も8人も子供が生まれるような社会では、成人後の彼らに与えることのできる、十分なポスト、財産は存在しません。
そこに、民族主義、宗教、労働運動、その他なんでもよいのですが、何らかの建前を用いて多すぎる若者を扇動できるような人物が現れたときに、一気に暴力的な状況が発生してしまうというものです。
子供が多いとそれだけ、野心と怒りにあふれた若者を大量に戦争に供給できることにもつながります。
著者は、ユースバルジによる暴力の例として、古くはコンキスタドールによる新大陸での文明破壊から、旧日本軍による虐殺、最近ではアルカイダによる自爆テロをあげて説明していますが、説得力のある内容だと思います。
なお、本書の表によると、本日、内戦の終結宣言がなされたスリランカでは、出生率の低下により15歳未満が人口に占める割合が26%にまで低下しているそうです(イラクでは41%)。

正直言って全く聞いたことのない著者でしたが、翻訳も読みやすくこういった問題に興味のある方には強くお奨めします。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

工作機械の歴史―職人の技からオートメーションへ

  1. 2009/05/17(日) 18:14:02|
  2. ★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
ジュンク堂にて購入。
以前読んだ「精密の歴史」がいまいちだったので、正直言ってびくびくしながらの購入です。
最初部分を立ち読みした限りでは、もう少し分かりやすいように思いましたが…。

科学史についての研究を仕事にしている人や、趣味で科学史について調べている人は世の中に相当数いるものでしょう。
しかし、特に金属加工の技術については、その重要性から見ればあまりにも興味を持つ人が少ないように思います。
これは、工作機械の発展は恐ろしく細かい工夫の積み重ねであり、誰にでも分かるような派手なブレークスルーがあったわけではない、というところに原因があるのでしょう。
例えば加工対象物(専門用語では「ワーク」と言います)の固定方法や、架台がたわまないような脚の形状、動力を伝えるためのベルトの断面形状などなど…。
いわゆるコペルニクス革命に相当するような派手な展開はありませんし、二重らせんのようなビジュアルな分かりやすさもありません。
不完全性定理や不確定性原理のような、認識論的に重要なことがらもありません。
ひたすら地味な工夫あるのみです。

そのせいか、たまに自称「科学ライター」のような方が、何だか的外れなことを書いているのを見るとがっかりします…。
宇宙の神秘、DNA、不思議な生態系、古代技術などには興味があっても、地味で汚い機械工作には目が向かないのでしょうね。
分野は違いますが、「シュリンキング・ニッポン」に出てくる地方商店街再生プロジェクトがことごとく「古い建物をカフェとして再生」だったり、「プロダクトデザインの思想」に出てくるデザイナーが「商業主義に陥ることへの反発」を述べていたりするの見たときに感じた、嘘っぽさというかお気楽さというか、そういうものを思い出してしまいます。
私が地味な世界にいるから、余計に派手なものしか見てくれない方々への反感が強いのかもしれません。

本書の著者は、民間の工作機器メーカーに長年勤めた方でして、さすがに見識を感じさせる文章です。
ただ、やはり図が足りなくて分かりにくいです。
私自身は、
 研削盤:使ったことがある
 旋盤:他人が使っているのを見たことがある
 ボブ盤:見たことがない
くらいの経験なのですが、特に旋盤やボブ盤に関しては何がなにやらという状態でした。
これを一読して理解できる人は、この世の中でも相当限られてしまうのではないでしょうか…。
ところどころ理解できる部分はとても面白いだけに、大変惜しい一冊だと思います。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

人麿の世界 その皇室観・世界観の新研究

  1. 2009/05/10(日) 19:30:29|
  2. ★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
大阪駅前第3ビルの地下古本屋にて、500円で購入。
amazonのリンク先は復刻版ですが、私が入手したのは昭和十八年発行の元版です。
ろくに中身読まずに買ったので、こんなに古い本だとは思いませんでした。
万葉歌人には興味無きにしもあらずといった程度なのですが、なんとなくタイトルをみて衝動買いしてしまいました。

柿本人麻呂といえば、個人的には
「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」
が真っ先に思い出されます。
今のような高層建築が全くなかった時代における、空の広さを感じさせてくれる作品だと思います。

平安時代の優美な和歌も好きなのですが、題材があまりにも男女の仲ばかりに偏っているのは残念に思います。
上代のように、単純に自然を歌い上げたものや、生活のこまごましたことに関する歌も、親しみが持ててよいものだと思うのですが…。

本書は、万葉集研究の大家による柿本人麻呂の概説書三部作の第一作目です。
発行当時は、第二次世界大戦の最中ということもあり、人麻呂の和歌において皇室がどのように表現されてきたか、ということも述べられています。
ただ、著者の人麻呂に対する愛は伝わってくるものの、はっきりといってしまえば論理的でない記述が多いのが気になります。
本書の中では、人麻呂を同時代の歌人である山上憶良としばしば比較しているのですが、両者の違いについてはその理由を「言うまでもない」の一言で済ませている部分が多々あったりして…。
芸術論なのである程度は感覚的になってしまうのはやむを得ないとしても、言葉の定義があいまいなままで自らの感情によってのみどんどん筆を進めていくのは、学者としてはいかがなものかと思います。
それとも、当時の文学研究のレベルが、この程度だったということでしょうか…?

なんだか、高校生の読書感想文を読まされているような気分になりました。
はたして、こんな本を復刊することに意味があるのでしょうか?
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

巨匠の世界 ブリューゲル

  1. 2009/05/09(土) 22:14:12|
  2. ★★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
梅田の古本屋街、かっぱ横丁で月に一度開催される通路市にて、800円で購入。
あんまり安くないな、と思ったのですが、amazonマーケットプレイスの相場から見るとそうでもなかったようです。

私が最初にブリューゲルに出会ったのは、大学生の頃に何かの本で「イカロスの墜落のある風景」を見たときです。
墜落して、大海原の隅のほうで誰にも気づかれず沈み行くイカロス。
しかし、それ以上に大きく前景に描かれているのは、イカロスとは何の関係もなく農作業を行う農民の姿です。
古代から語り継がれてきた有名な神話ですが、たった一人の人間の墜落死よりも、名も知られぬ民衆の日々の暮らしのほうが、人類にとってはずっと重要なのだ、というブリューゲルのメッセージだろうか…とぼんやり思ったのを覚えています。

次にブリューゲルに出会ったのはそれから数年後で、その作品は「いざりたち」でした。
両足の先が切り取られて杖を使って移動する人々が、恐ろしいほど「見たままに」描かれております。
彼らのうちの一人には足以外の部分にも麻痺が残っているようで、硬直した姿勢をとっています。
障害者たちを美化することもなく、また逆に故意におとしめることもなく、まさにそのままを描くブリューゲルは、現代の我々が障害者を見つめる際に感じるためらいとは、全く無縁なのでしょう。

「いざりたち」に出会って以来、ずっとブリューゲルは気になっていました。
通路市で本書に出会ったときには、そのサイズの大きさに相当ためらったのですが、やはり我慢できず購入してしまいました。

本書は、一見画集のように見えますが、実際のところは読み応えのある解説を備えた美術書です。
フェリペ二世による新教弾圧などの時代背景や、ヤン・ファン・アイクやヒエロニムス・ボッシュといった当時のフランドル地方の画家による影響について、詳細に述べられています。
なかでも最も印象深い記述は、当時の北ヨーロッパにおける一般民衆の人生の厳しさについてのものです。
死ぬまで続く休みない労働、ちょっとした病気ですぐに奪われる命の軽さ、全てが死に絶える秋から冬の陰鬱…。
「いざりたち」に限らず、ブリューゲルの作品には狂人や盲目の人々などの障害者が頻繁に現れますが、これも事故や病により障害者になってしまうことが日常茶飯事だったからなのです。
「謝肉祭と四旬祭の喧嘩」においては農民のお祭りが描かれていますが、その底抜けの馬鹿騒ぎからさえも、恐ろしく単調で厳しい毎日が想像されます。

本シリーズは比較的品がだぶついているようで、古本屋でもあちこちで見かけたりします。
興味がある作家についてのものでしたら、迷わず購入をお勧めできるシリーズだと思います。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

故郷 / 阿Q正伝

  1. 2009/05/05(火) 22:02:03|
  2. ★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
amazonで購入。
近代中国文学は、世界の他の地方の文学に比べて影が薄いような印象があります。
私自身、19世紀以降の中国人の作家といわれても、魯迅以外に思いつく人物はいません。
政体の影響なのか、単純に翻訳が少ないだけなのか、それとも識字率が低いのか…あんなに人口が多いのだから、もう少し世界で読まれていてもおかしくないとは思うのですが。

プレゼンや書類作成の研修やら入門書などに必ず載っている内容として、「誰が読むかを意識する」というのがあります。
情報の受け手がどういったバックグラウンド、知識、役割、嗜好を持つかによって、伝えるべき内容は大きく変化するので、伝え手としてはそれに応じて伝え方を考えなければなりません。
これを反対側から見ますと、万人に対して有用な情報などは存在しない、ということにもなります。
実用文書だけでなく、芸術の分野でもそうなのでしょう。
どんなに名作であっても、全ての人に感銘を与えるのは不可能なのだと思います。
ごく一部の人の心にだけ響くのか、それとも比較的様々な人にも好まれるのか、といった程度の差はあるのでしょうが…。

本書は魯迅の代表的な短編集「吶喊」と、自伝的エッセイ集「朝花夕拾」からの数編ずつが掲載されています。
解説では芥川龍之介からの影響が指摘されていますが、確かに人間の勝手さ、愚鈍さについて、一歩引いた立場からユーモアを交えて描いた作品が多いように思いました。
ただ、それ以上に革命期の中国人に対して目覚めを呼びかける、といった政治色のほうが強いのかもしれません。
そのため、何十年も安定した政体のもとで暮らしてきた私にとっては、ややうつろに響くような印象を受けてしまいます。
確かに、人間の本質は変わらないので、現代の日本人が読んでも共感できる部分もあるのでしょうが…。

かつては世界一の大国であった母国が、アヘン戦争に負けて西洋に侵食された挙句、相次ぐ革命により国民としての誇りを失いつつある…そういったバックグラウンドを持つ人にとっては、傑作だと感じるのでしょう。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

狭衣物語

  1. 2009/05/04(月) 22:25:00|
  2. ★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
ジュンク堂大阪本店にて購入。
新潮日本古典集成のシリーズは、全体的に訳注が大変充実していてお気に入りです。
「狭衣物語」については寡聞にして全く知識がありませんでしたが、本シリーズならとりあえず間違いなかろうと思い、購入してみました。

日本の古典を読むと、いつも、歌の贈答の頻繁なことと、それぞれの歌の巧みさに驚かされます。
単に五七五七七の中に自らの心情をうまく読み込むだけでなく、縁語や序詞、掛詞、本歌取りなど様々な技巧をこらしたものを即興で作りださなければなりません。
本当に物語にありますように、あれほど質の高い歌が日常的にやりとりされていたのでしょうか?
歌の苦手な人にとっては、人と会う機会そのものがプレッシャーになってしまいそうです。

本書は
「少年の春は惜しめどもとどまらぬものなりければ」
といった美しい出だしから始まり、その後も狭衣中将と数人の女性との交際が流れるような文体でつづられます。
伝統的な「今は昔」といった書き出しをあえて避けていることからも、文章については相当に工夫が凝らされているようです。
また、それ以上に、圧倒させられるのは、文中に大量に現れる和歌です。
素人目に見ても質の高い和歌が多く、これらをすべて一人の作者がこの物語のために詠んだとは信じがたい思いです。
時代背景や和歌についての訳注も大変充実しておりまして、古文の専門家でない私にとってもかなり読みやすく感じました。

ただ、主人公である狭衣中将は理想的な人物として描かれているにもかかわらず、個人的には疑問に思う行動が非常に多くあります。
自らのにえきらない態度のせいで出家するまでに追い込んでしまった女性に対して、しつこく直接会っての言い訳を試みようとするところなどは、到底共感できるものではありません。
女性の側では、狭衣中将のことを考えることすら耐えがたいという態度を明らかに見せているのですが、狭衣中将は自己満足としか思えない謝罪のために何度も何度も連絡を取ろうとします。
平安の時代には、このしつこさも男性の魅力の一つなのでしょうか…?

全体的には綿密に構成されていてストーリーとしても面白いのですが、狭衣中将の不可解な行動のために読み進めるのが辛いところも多くありました。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

DTIブログって?