容量2GB!アクセス解析&動画ファイルも可能な無料ブログ。アフィリエイト完全対応。
  最新画像一覧   /    おもしろブログが満載! シャッフル ブログ  /     無料登録  

メタフィジカル・クラブ――米国100年の精神史

  1. 2011/11/27(日) 22:41:36|
  2. ★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
前々から、南北戦争やベトナム戦争を経験したアメリカ人が、その前後で世界観をどのように変えてしまったのかについて興味がありました。
両方に共通するのは、かつてないほどの死の身近さと不条理を知った市民が体験した、大きな幻滅です。
戦死とアメリカ―南北戦争62万人の死の意味」などというタイトルの本もありますが、戦争を経験した市民の多くは、莫大に消費された生命が持つ意味を捜し求める苦闘に入ったのでしょう。

本書の表紙には、南北戦争の緒戦が繰り広げられたサムター要塞に掲げられた旗、いわゆる「Fort Sumter Flag」です。
北軍側、南軍側どちらにとっても、自らの信じる愛国心の象徴でした。
それなので、南北戦争の結果を眼前にした人々が、どう世界観を再構築したかについて述べられていると期待して本書を購入しました。
実際は、南北戦争は始まりに過ぎず、南北戦争以降の米国思想史を概観したものでしたが…。

科学と宗教、大学の果たすべき役割、言論と研究の自由、人種間の優劣、因果律の妥当性など、19世紀後半のアメリカが立ち向かわざるを得なかった課題について、「メタフィジカルクラブ」と呼ばれる若い思想家たちの集まりを中心軸として解説されています。
当時のアメリカ思想を代表する言葉の一つとして「プラグマティズム」なるものがありますが、これ自体が使用者によってその定義が異なり、多様な見方ができるのでしょう。
ただ、共通するのは世界の大幅な転換を眼前にしての、価値の再構成への苦闘のように見えます。

非常に分量が多いのと、当初の期待とは違った内容だったのとで、多少なりとも読むのには苦労させられました。
アメリカの書籍にありがちなのですが、記述がとてもくどいのですが、思想史に興味のある方は読んでみても決して損はしないでしょう。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

ココロコネクト ヒトランダム

  1. 2011/11/19(土) 22:21:45|
  2. ★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
これまで人生でほとんど縁のなかったライトノベルも読んでみようと思い、購入しました。
ファミ通文庫の作品を読むのは、初めてです。

月一回「文研新聞」なる壁新聞を作ること以外に、特にこれといった活動の内容の無い「文化研究部」。
主人公は、この文化研究部に所属する男女5人の高校生です。
前触れも無く、お互いの人格が入れ替わるという現象に巻き込まれた彼らは、事件を通じて心の奥底に秘められたトラウマを顕在化させます。

私が今までライトノベルの特徴として伝え聞いていた「もってまわった言い回し」が、ふんだんに織り込まれています。
また、主役ともいえる一人の男子生徒に、女性からの人気が集まるなど、おそらくはこの手の話のお約束を忠実に守った作品なのでしょう。
もちろん、矛盾を突こうと思えばいくらでも突ける内容なのですが、エンターテインメントとしてはとてもよくできているように思えました。
中学、高校、大学、大学院と男子校で育った私には、あまりにもまぶしく見える内容でしたが…。

私はライトノベルはあまり読んだことがないのですが、本書を読む限りにおいては、ひとつにテーマを絞ることによって、ストーリーを単純化して読みやすくするという手法がとられているように思いました。
そして、絞りきったテーマから零れ落ちた内容については、シリーズ化して次の作品に託すのでしょう。
多様な読み方を許す重厚な文学作品もいいのですが、こういうシンプルさに徹した作品も、これはこれで面白いものだと思います。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

プラッサンの征服

  1. 2011/11/17(木) 00:37:23|
  2. ★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
ジュンク堂の大阪本店にて購入しました。
順番に読んでいっている、「ルーゴン・マッカール叢書」の4冊目です。
このシリーズの趣旨として、「フランスのあらゆる階層を描写する」というものがあります。
獲物の分け前」では大富豪による享楽とマネーゲームの世界が、「パリの胃袋」では庶民の世界が舞台でした。
本書では、商売をなかば引退した、比較的裕福な金利生活者が描かれます。

本シリーズの登場人物は、「始祖」たる女性アデライード・フークから枝分かれしたルーゴン家、マッカール家、そしてムーレ家の三つの家系に属します。
本書の主人公夫婦のフランソワ・ムーレとマルト・ムーレは、ともにアデライードの孫ということで、いとこ同士です。
幼い頃はお互いにとても性質が似ていたようですが、長じるにしたがって双方とも変化し、今では多少亭主関白ながらもありふれた中年夫婦です。
子供を入れて5人家族が平穏に暮らしていたところに、神父フォージャとその母が下宿することから物語は始まります。
神父は、街の権力筋の人望を得て、放蕩物の妹夫婦とともにムーレ家を占拠して、元の住民は追い出された格好となります。
勝利を得たかに見えたフォージャ一族は、最後に狂気のフランソワによる放火のなか、ムーレ家もろとも燃え尽きます。

もともと、家族の中に「異物」が入ることに対して、夫が乗り気であったのに対して妻が異論を唱えました。
時が経過すると立場が逆転して、妻は神父を愛するがあまり、夫を捨て去るというのは、「軽蔑」と同じ構造です。
本書においては、ほぼすべての人物が町における威信争いにより、心の底では憎しみあっているように見えます。
これは、読んでいて本当に疲れますね…。
最後に炎の中、すべてが消え去るのは決して幸せなことではないのですが、むしろカタルシスのようなものを感じてしまいました。

本書のテーマのひとつに、血によって受け継がれる性質があります。
始祖アデライードは狂気の人であり、この物語中でも精神病院に隔離されているのですが、孫たる夫婦にも確実にこの狂気は遺伝していました。
これまで狂気は表に出ることなく、商売人としての社会生活を成功させていたのですが、神父の侵入をきっかけにアデライードの血が目覚めることになります。
ただ、本書ではアデライードの性質や姻戚関係についてはほとんど触れられないために、この遺伝を読み取ることは困難でしょう。
ルーゴン・マッカール叢書の登場人物顔見せ的な意味を持つ「ルーゴン家の誕生」は先に読んでおいたほうがよいと思います。

登場人物には、健全な善人が全く現れないので、読むにはそれなりの精神力が必要です。
しかし、それぞれの場面は面白く読めました。
このシリーズ全般に言えることですが、価格が高いのが玉に瑕ですね…。
あと、本の装丁でムーレ家炎上のネタバレするのはいかがなものかとも思います。
(それだからこそ、私も上記のような物語の内容に踏み込んだ文章を書いたのですが。)
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

専門知と公共性―科学技術社会論の構築へ向けて

  1. 2011/11/13(日) 17:40:05|
  2. ★★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
ジュンク堂の大阪本店にて購入しました。

春の大震災以来、さまざまな分野において専門家の間でも意見が分かれる事態が目につくようになりました。
その、もっとも顕著なものが原発の危険性と、その是非についてでしょう。
従来は危険性を軽視しすぎていたことについてはほぼ同意されているものの、原子力の専門家の間でも展望については合意がなされていないように見えます。
このような状態では、極端にいってしまうと、今後の政策について原子力の専門家が確信を持てないまま決定した場合と、知識も関心も全く無い人が適当に決めた場合とで、どちらが正しい判断ができるかは微妙なところです。
結局のところ、両者とも「よくわからない」ことでは一緒なのです。

私は原子力の専門家ではありません。
しかしながら、大学において実験系の研究室で教育を受けたという点では、一般の方々よりも専門家よりの視点を持っているのでしょう。
正直に申し上げると、事故発生当初はこれほどの大事になるとは全く思いませんでした。
私の見る限り、専門家の多くも比較的事態を楽観視していたように思えます。
むしろ、「ヒステリックに騒ぎ立てていた」ように見える、一部の市民の方々のほうが事態を正確に予想していたのかもしれません。
このような状況下で、「専門家」は果たして政策決定に対して役割を果たせるのかどうかを疑問に思っていたところで、本書に出会いました。

二箇所ほど、本文から引用します。
科学者が、「まだ実験データが足りない」「きちんとした結果を出すには時間がかかる」と主張するのは、今、まさにそのような妥当性保証の境界を構築する側からいえば、当然の主張である。
ところが、それに対して市民の側が「すぐに結果が欲しいのに、結果を出し惜しんでいる」「データを隠しているのでは」と反応するのは、市民の側が科学を「確固たる結果をすぐ出せるもの」と誤解しているために生じる。
我々は、科学史で「一九世紀においては○○が真実と考えられてきたが、現在では××が真実であると考えられている」という種類の記述を見ても驚きはしない。
つまり、科学的知識が書き換えられる性質を持つということを、どこかで理解しているのである。
ところが、これが科学と社会との接点で起こる問題となると、ひとびとは科学の「書き換えられる」という性質を忘れて、科学に対する要求品質を上げる。
科学は常に正しいことを言っているはずである、という批判をするのである。
これは、私の持つ科学の限界、または実情に対する感覚と全く一致します。
「科学的真実」と呼ばれるものは、いわば仮構でしかなく、いつ作り変えられても不思議ではないものです。
しかしながら、科学が確固たる証拠に基づいたものであるという誤解が、一般の方々だけでなく科学、工学に携わる多くの人々の間にも蔓延しているために、しばしばすれ違いが発生するように思います。
道を尋ねられて、本当は100%の確信が無いにもかかわらずある方向を指してしまう人のように、専門家たるもの何がしかの答えを提示するべきであるという無理な義務感があるのかもしれません。
思い返せば、市民に不安を与えるのを避けるという政治的な意図もあったにせよ、正直に「わからない」ことを科学者は表明する必要もあったのでしょう。

もう一箇所本文から引用します。
科学の公共理解を語る枠組みは、市民の側の知識の「欠如モデル」で語られてきた。
このモデルは、専門家から市民への一方的な知識の流れを仮定している。
つまり、専門家のみが権威ある知識をもっており、それに基づいた選択肢を作り上げ、住民の側に「受容せよ」と求める。
(中略)
市民は無知で、知識が欠如しており、専門家から市民へ一方向に知識が流れ、かつ、専門家と行政の決めた最適な意思決定あるいは科学技術を一方的に受容せよ、ということになる。
(中略)
日本の原子力発電をめぐる多くの専門家からの発言が、この欠如モデル(中略)に基づいていることは否めない。
本書が2003年の発行であることを考えると、まさに卓見であるといわざるを得ません。
もちろん、科学的にほぼ確定しており、疑いの余地が極めて小さいことがらもあります。
しかし、今まさに問題となっているTPPや、レーシック手術への規制のように、専門家間でも位置づけがはっきりしていない状態で政策判断を下さなければならない問題は、多数存在します。
この場合、上記「欠如モデル」の前提である、専門家の優位は完全に崩れ去ります。

この状況で、本書ではタウンミーティング的な、市民参加を提唱します。
ただ、市民参加の一番の問題点は、市民の数が多すぎるためにいかにして「代表的な意見」を抽出するかについての方法論が固まっていないことのように思います。
実際、本書でもこの点にはほとんど触れられていないように思います。

論点も整理されていますし、文章も比較的平易です。
昨今の状態に疑問を持つ、多くの方にお薦めしたい一冊です。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

吉里吉里人

  1. 2011/11/07(月) 22:26:31|
  2. ★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
ジュンク堂大阪本店にて購入しました。
20年ほど前に一度読んだことがあるのですが、だいたいの大筋は記憶していたので、「オチ」もわかっている状態での再読。

物語の舞台は、昭和50年代の東北地方北上川流域。
仙台駅から盛岡へ向かう夜行列車「十和田3号」は、早朝6時過ぎに猟銃を持った現地人に占拠され、乗客が拉致されるという事件が発生します。
彼らの主張によると、沿線のごく狭い一帯は「吉里吉里国」として独立を宣言したため、出入国管理法違反により逮捕する、ということでした。

本書では、いかにして「吉里吉里人」たちが日本からの独立を決意し、どのような戦略を持って生き延びようとしたかが述べられます。
これは、政治的な発言も多かった著者の思想を反映したものでもあり、農政への批判、医学振興の必要性、教育への提言などがところどころに織り込まれたものとなっています。
ただし、文体はあくまでコミカルであり、どこまでが冗談でどこまでが本気なのかわかりづらいつくりとはなっていますが…。

吉里吉里人たちは、当地の方言(いわゆるズーズー弁)を「吉里吉里語」と称して公用語とし、日本語と明確に区別します。
政治的な話、医学的な話、その他すべてを「吉里吉里語」にて行うのですが、以前読んだ「アフリカのことばと社会」に掲載の文献にあった、ナイジェリアピジンで学術文章を書く試みを思い出しました。
正統とされる言語には自然と「威信」のようなものが備わり、公的な場ではそういった言語を使うようにという圧力が発生するものです。
威信言語をうまく使いこなせない人は下等であるというレッテルが貼られることが多いのですが、一般的には威信言語とはみなされないズーズー弁を公用語とすることで、この言語圧力への対抗を示そうとした…というのは、うがった見方かもしれませんが。

それなりに分量も多く、なおかつ「吉里吉里語」は読むのにたいへん体力を必要としました。
ところどころに透けて見える政治的な主張と肌が合わない人もいるかもしれませんが、展開は速く飽きさせない一冊だと思います。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

識字の社会言語学

  1. 2011/11/04(金) 00:40:55|
  2. ★★★★|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
ジュンク堂の大阪本店にて購入しました。
私自身、文字文化にどっぷり浸かった生活を送っているのですが、文字を読むことができないという状態は想像もつきません。
よく、日本人の識字率が高いことは誇らしげに述べられており、私も周囲の人々の中で文字が読めない人は全く思い当たりません。
そんな中で、日本語の識字にたいして、どういう問題意識を見出すのか興味を持ったのが、購入のきっかけです。

本書は九章からなっておりますが、うち五つの章は編者である「かどやひでのり」「あべやすし」によるものです。
よって、彼等の主張が強く前面に押し出されたものとなっています。
通常、我々の感覚としては「非識字者」というと、日本語話者のなかでも日本語の文字の知識が無い人を指して言いがちですが、編者は日本語文字を読めない人々をすべて「非識字者」として捕らえます。
弱視、盲人などの目に障害がある人たち、知的障害者、母語が日本語でない在日外国人など…。
そして、彼らはそういった非識字者たちすべてが、文字情報へのアクセスを保証されるべきだと主張します。

確かに、そういった弱者に対する配慮は必要ではあると思いますが、著者たちが望むような体制を整えるには、莫大な手間と費用がかかることでしょう。
本書の中で「生命倫理とは何か」に収められている「障害学のアプローチ」という文章から、下記の部分が肯定的に引用されています。
しかしそもそも介助が必要な人に介助がないのがおかしい。
目が見えない人に点字や音声での上方がないのがおかしい。
むずかしい字が読めない人に漢字ばかりの文書しかないのがおかしい。
公共機関の連絡先に電話番号しかないのがおかしい。
会議に手話通訳者の準備がないのがおかしい。
段差ばかりの建物がおかしい。
こういう文章を見ると、私は「何もおかしいところはなくとも、その人の特性として苦労せざるをえないこともあると、なぜ考えることができないのか?」と疑問に思います。
たとえば、私は車の運転が苦手で、鉄道で行くことのできない場所に行こうとするとかなりの不便を感じます。
ただし、だからといって「おかしい」とは感じません。
上記のように、すべての不具合を「おかしい」と感じてしまうのは、ある意味社会に対する過剰な要求のようにも思えるのです。

本書に一貫して流れるのは、「文字を読む」という能力の高低により得られる情報に差が発生することへの反感、もっといえば能力主義を差別ととらえる意識です。
わかりやすさの本質」からは、下記文章が引用されています。
新聞の文章は、義務教育を卒業したことで得られる学力がある不特定多数の読者を想定して書かれているといわれるが、正確に言うとそうではない。
ふだんから新聞をよく読み、継続的に書かれているテーマについてある程度の予備知識がある読者を想定して書かれている、と言うべきなのかもしれない。
そして、想定される読者の中には知的障害者は入っていないと断言できる。
これは、完全に同意しますが、だからといって何が問題なのでしょうか?
たとえば、為替相場についての文章を読んで理解できるかどうかは、文字を知っているかどうかとはまったく別の問題であり、むしろ予備知識と読解力によるものでしょう。
しかし、この内容をすべての日本語話者に理解させるべきだというのは、あまりにも暴論と感じざるを得ません。
そのためにどれだけの手間、人、費用がかかるのか、まずは一度考えてみるべきではないでしょうか?

ということで、色々と著者たちの意見には賛同できないものも多かったのですが、ただ、私自身が見落としていた視点も多くあり、その点では面白い本でした。
日本の識字運動が、伝統的に部落解放運動と一体となって推進されてきたために、妙にその趣旨がゆがめられてきたというのは、おそらくそのとおりなのでしょう。
そして、非識字者を根拠もなく美化し、イメージを作り上げることによりその運動を正当化するというのは、ありそうなことだと感じました。
読む人によりいろいろと意見はあるでしょうが、個人的には面白い本だと思います。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

DTIブログって?