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カクテル・パーティー

  1. 2013/08/13(火) 01:13:30|
  2. ★★★★★|
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  4. コメント:0
本書に収められている5作品のうち、これまで読んできた「コレクション 戦争×文学」シリーズに2作品は収められています。
一つは「アジア太平洋戦争」に掲載の「亀甲墓」、もう一つは「オキナワ 終わらぬ戦争」に掲載の「カクテル・パーティー」です。
それでも、この本を購入したのは「カクテル・パーティー」の完結編ともいうべき「戯曲 カクテル・パーティー」を読みたかったからです。

米軍占領下の沖縄で、主人公上原の娘は近所に住む米軍関係者に暴行されます。
しかし、協定の壁に阻まれて、犯人の米軍関係者を日本の裁判で裁くことはできず、逆に犯人のほうは暴行に抵抗した娘によりけがをさせられた旨で訴訟を起こしました。
その前日には、日米、沖縄の友好を多くのアメリカ人の友人とパーティーで語りあったのですが、裁判に力を貸してほしいという上原に対して、その友人たちは突然冷たい態度をとるようになります。

国同士の禍根はいったん棚上げして、個人レベルでの友好を積み上げることでお互いの信頼関係を作り上げよう。
この理屈は、禍根を与えたほうからよく聞かれるものです。
真珠湾攻撃の是非は棚上げして、日本人はアメリカ人との個人レベルの友好を望む。
原爆投下の是非は棚上げして、アメリカ人は日本人との個人レベルの友好を望む。
米軍基地の問題は棚上げして、アメリカ人は沖縄人との個人レベルの友好を望む。
中国占領の問題は棚上げして、日本人と沖縄人は中国人との個人レベルの友好を望む。
沖縄県人への虐待の事実は棚上げして、本土人は沖縄県人との個人レベルの友好を望む。
多くの関係者が加害者であり同時に被害者でもある錯綜した状態において、これらは一見未来志向で理にかなったものですが、一つだけ見逃されているのは、被害者としての感情です。
上原はこういった棚上げ論を拒否し、
どちらも被害者であると同時に、加害者だということを自覚することからしか、新しい世紀ははじまらない。
おたがいに自分を罰することによって、相手にも徹底的に不寛容になって、裁く資格を得るのだ。
自分をも苦しめることになるけれども、そうすることが、人間としての道なのだ。
といいます。
国家レベルでの対立を、個人同士の関係に持ち込まないでくれという、一見正論とも見える理屈に対して、真っ向から反対し、個人としての反省、不寛容から始めるべきだと主張します。。
交渉においては自分の有利な点のみを強調するのは正道でしょうが、人間同士の関係ではこの正道だけでは何も解決しない、というのが著者のメッセージなのかもしれません。

これに対しては賛否あるのでしょうが、改めて読んで思ったのは著者の軸となった思想の堅固さです。
岩波現代文庫として初めて日本語で戯曲のほうが出版された結果、1967年と1985年の二つの「カクテル・パーティー」を今になって読み返すことができるのは、幸せなことだと思います。

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